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八街市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
明治初期の開墾以来、先人たちが築いてきたふるさと「八街」は、明治、昭和の合併を経て、平成4年4月1日に県下30番目の市として新たなスタートをしました。
千葉県北部のほぼ中央に位置し、東京から50km圏内にあり、京葉工業地帯からは20km、成田国際空港から10kmの位置にあります。東は山武市に接し、西は佐倉市に、南は東金市・千葉市に、北は酒々井町・富里市にそれぞれ接しています。
市の広さは、東西に短く約7.7km、南北に長く約16kmあり、面積は74.87km2です。
市の中央部は市街地を形成し、周囲には平坦な畑作地帯が広がっているほか、南西部及び北部に水田地帯が点在しています。
基幹産業である農業は、にんじん、さといも、だいこん、落花生、すいかなど、野菜が中心となっている都市近郊型農業です。
▼歴史
八街(やちまた)の由来は、明治の初期、新政府の政策により徳川幕府の放牧地であった小金牧・佐倉牧の開墾に際し開墾局が開庁した。明治2年5月25日(1869年7月4日)に開墾着手の順序によって命名された字名が始まりとされている。これらの字名は以下のとおりで、明治5年11月2日(1872年12月2日)にそれぞれの村が誕生した(九美上は1876年(明治9年)10月23日)。初富(はつとみ)現在鎌ケ谷市の一部
二和(ふたわ)・三咲(みさき)現在船橋市の一部
豊四季(とよしき)現在柏市の一部
五香(ごこう)・六実(むつみ)現在松戸市の一部
七栄(ななえ)現在富里市の一部
八街(やちまた)現在八街市
九美上(くみあげ)現在香取市の一部
十倉(とくら)現在富里市の一部
十余一(とよいち)現在白井市の一部
十余二(とよふた)現在柏市の一部
十余三(とよみ)現在成田市、香取郡多古町の一部
1872年(明治5年)11月2日-印旛郡八街村が誕生。
1889年(明治22年)4月1日-町村制の施行により、八街村、文違村、榎戸新田、大関新田、雁丸新田が合併し、印旛郡八街村が発足。
1919年(大正8年)1月1日-八街村が町制施行により八街町(初代)となる。
1954年(昭和29年)10月31日-山武郡日向村(現在の山武市)のうち大木、木原地区の一部を編入。
1954年(昭和29年)11月1日-隣の川上村と合併し、八街町(2代目)を新設。
1956年(昭和31年)4月1日-山武郡山武町沖渡の一部を編入。
1992年(平成4年)4月1日-1990年(平成2年)10月の国勢調査で市制規定人口の5万人を越えた為、市制施行。人口54,756人の八街市が誕生(千葉県で30番目の市制施行)。
一部wikipedia引用。※一部八街市HP引用。
印西市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
本地域は、東京都心から約40km、千葉市から約20km、成田国際空港から約15kmに位置し、西は我孫子市・柏市・白井市に、南は八千代市・佐倉市・酒々井町に、東は成田市・栄町に、北は利根川を隔てて茨城県に接しています。
本地域は、南東部を印旛沼、北西部を手賀沼、北部を利根川に囲まれ、標高20から30m程度の平坦な台地と、湖沼周辺の低地により構成されています。
また、台地と低地部の境には、低地部から台地に入り込む谷津と呼ばれる地形と斜面緑地によって、地域の特徴的な景観が形成されています。
地質は、台地は洪積層に属し関東ローム層からなっており、低地部は沖積層に属し一般に肥沃な土地が広がっています。
▼沿革
江戸時代は利根川の水運が盛んで、物資移送や香取神宮、鹿島神宮、息栖神社の三社詣などで木下街道付近にあった木下河岸が栄えた。
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行に伴い、印旛郡木下町、大杜村、船穂村、永治村、六合村、宗像村、本郷村、埜原村が誕生。
1913年(大正2年)3月1日-大杜村が町制施行・改称して大森町となる。
1913年(大正2年)4月1日-本郷村、埜原村が合併して本埜村が誕生。
1954年(昭和29年)12月1日-木下町、大森町、船穂村、永治村(平塚・谷田・清戸・十余一を除く)の2町2村が合併し、印旛郡印西町が誕生。
1955年(昭和30年)3月10日-六合村、宗像村が合併し、印旛村が誕生。
1966年(昭和41年)6月-日本で初めてナウマン象のほぼ完全な化石が発掘される。
1984年(昭和59年)3月19日-北総開発鉄道北総・公団線(千葉ニュータウン線)が開通し、千葉ニュータウン中央駅開業。千葉ニュータウン中央エリアへの入居開始。
1994年(平成6年)1月-日本医科大学千葉北総病院が開設。
1995年(平成7年)4月1日-印西牧の原駅開業。千葉ニュータウン西の原エリアへの入居開始。
1996年(平成8年)4月1日-単独市制施行。
1997年(平成9年)3月-千葉ニュータウン滝野エリアへの入居開始。
2000年(平成12年)3月-千葉ニュータウンいには野エリアへの入居開始。
2000年(平成12年)7月22日-印旛日本医大駅開業。
2008年(平成20年)1月15日-歩行喫煙、ポイ捨て等防止条例が施行。
2010年(平成22年)3月23日-印旛郡印旛村と本埜村を編入。
2010年(平成22年)7月17日-成田スカイアクセス開業。
2012年(平成24年)5月25日-北千葉道路一部開通。
一部wikipedia引用。※一部印西市HP引用。
南房総市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
本市は房総半島の最南端に位置し、房総丘陵を抱え三方を海に囲まれた温暖な地域である。東京から100km圏内である。
行政区域は館山市を取り囲む形となっており、同市を挟んで内房側を富山・富浦地区、外房側を白浜・千倉・丸山・和田地区、館山市の北に隣接する内陸の地区を三芳地区と呼称する。三芳地区は内房側、外房側の各地区と道路で結ばれており、また内房側の各地区と外房側の各地区も、山中を通過する道路でつながってはいるが、鉄道や幹線道路を利用して最短距離で移動するためには館山市を通過しなければならない。後述するように館山市を含めた合併が破談となり、周辺町村のみで合併したため、このような変則的な行政区域となったが、館山市とは同一生活圏にある。
市役所は当面、旧富浦町役場を使用するが、富浦地区が南房総市の地理的・経済的な中心地というわけではない。人口が最も多いのは千倉地区だが、合併前まで警察署が置かれるなど(千倉署が旧千倉町、旧白浜町、旧丸山町、旧和田町を管轄→合併後は南房総市全域が館山署の管轄)、外房側地区の中心地ではあるものの、内房側の各地区や三芳地区から見た場合、千倉地区は中心地とはいえない。南房総市を含む安房地域の地理的・経済的な中心地はやはり館山市であり、特に商業、医療などの面では館山市への依存状態にあるといえる。ただし和田地区は鴨川市との結びつきも強い。
千葉県の最南端である旧白浜町は太平洋に面しており、伊豆諸島や、冬の冷え込んだ時などには伊豆半島も遠望できる。
▼歴史
本地域が位置する安房地域は718年(養老2年)に上総国から分かれ、明治初期まで安房国と呼ばれていた。かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した。
戦国時代に入り、15世紀中頃に里見氏が安房統一を果たし、戦国末期に館山城を築城し、安房国統治の拠点とした。江戸時代初期、里見氏は江戸幕府により1614年(慶長19年)に改易され、以降この地は旗本領、天領、小大名の領地として分割統治された。
近代に入り、1878年(明治11年)の郡区町編成法施行により郡制を施行、1897年(明治30年)には「交通の便が相互にあり且つ民族風俗に大差がない」という理由から、安房郡、平郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を合併して、現在の安房郡の前身となる「安房郡」が形成された。
2006年(平成18年)3月20日安房郡富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、和田町が合併し、南房総市が発足。
白井市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
白井市は千葉県の北西部に位置し、東は印西市と八千代市、南は船橋市、西は鎌ヶ谷市、北は柏市の5市に接する、環境にやさしいまちづくりを進める、梨の花咲く健康文化都市です。
白井市は都心から30㌔㍍の距離にあり、当時白井町だった昭和54年に北総鉄道が開通したことで沿線のニュータウン地区に住民が多数入居し、人口が飛躍的に増加しました。平成13年4月には市制を施行し、千葉県内で32番目の市になりました。
白井市の特産品は梨で、全国でも有数の産地として知られており、栽培面積は千葉県内で1位です。詳細は 「しろいの梨」 (関連ページにジャンプします)に掲載しています。
「人とまちの健康づくり」や「住民参加」を基本とする白井市は、平成16年6月に施行した市民参加条例などを踏まえ、今後も市民の皆さんとともに歩んでいきます。
▼沿革
1885年(明治22年)4月1日-町村制施行に伴い、白井橋本村、神々廻村、根村、名内村、富塚村、折立村、腹村、木村、中村、中村新田、今井新田が合併し印旛郡白井村が発足[1]。同時に隣接する谷清村と共に白井村谷清村組合村を発足。
1912年(大正2年)4月1日-谷清村が永治村に編入されたため白井村谷清村組合村を廃止し、単独村制となる(なお、昭和30年まで千葉県下には同名の村、千葉郡白井村が存在した)。
1954年(昭和29年)12月1日-永治村の一部(平塚と旧谷清村)を編入。
1964年(昭和39年)9月1日-町制施行し、白井町になる。
1965年(昭和40年)-工業団地が造成される。
1979年(昭和54年)3月9日-北総開発鉄道北総線が開通。千葉ニュータウンへの入居開始。
2001年(平成13年)4月1日-市制施行し、白井市になる。
▼歴史
十余一地区は県内では11番目に入植したことから付いた地区名です。近世村落は当初、そのまま最初の行政単位となりましたが、明治政府による制度の改変で整理統合されることとなりました。明治7年(1874年)には所沢・野口が合併して木村が、長殿・法目・富ヶ谷・富ヶ沢が合併して復村が、七次・中木戸・白井木戸などが合併して根村が誕生するなど、現在の大字の基となる行政区画が成立します。さらには明治17年(1884年)に白井橋本村外6ヶ村連合村が成立、明治22年(1889年)に白井谷清組合村、大正2年(1913年)に白井村が成立するなど、離合集散を繰り返すこととなりますが、最終的には戦後の昭和29年(1954年)の昭和の大合併によって永治村の一部と合併し、白井村がほぼ現況の範囲に近い形で成立します。
戦後には冨士地区で開拓が始まり、昭和39年(1964年)に白井は町制へ移行し、以後昭和40年代には国道16号線や白井工業団地、千葉ニュータウンの造成が行われ、昭和54年(1979年)に千葉ニュータウンの入居が開始されて以降は人口増加が進み、平成13年(2001年)白井は市制に移行し、現在に至ります。
富里市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
富里市(とみさとし)は、千葉県の北部中央にある市。東京都心から60km圏内、北総台地のほぼ中央に位置しており成田国際空港から4kmの所に位置する。スイカの産地として、現在では生産高、出荷量ともに全国第2位を占める。また明治期に御料牧場が設けられた「競走馬のふるさと」として有名。
2000年(平成12年)に行われた国勢調査の結果、市制施行可能最小人口(5万人)に達し、「印旛郡富里町」から「富里市」となった。
千葉県の北総台地にある。東西約10km、南北約11km、総面積53.91km²の市。
面積のおよそ68%以上が山林及び農地。住宅地は14%程度。
千葉県では唯一、鉄道路線のない市である。
▼沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 日吉倉・久能・大和・根木名・七栄・新橋・中沢・新中沢・立沢・立沢新田・高野・高松・十倉の13の村が合併して「印旛郡富里村」を形成。[1] 明治の大合併以降、合併を行っていない数少ない自治体のひとつでもある。
(現在県内では富里市・浦安市・鎌ヶ谷市の3市と酒々井町の1町のみ。) 1985年(昭和60年)4月1日 - 町制施行。
2002年(平成14年)4月1日 - 市制施行。
▼歴史
明治に入って、葛飾県・佐倉県・印旛県と3度にわたる所轄の変遷があったが、明治6年に木更津域とともに新しく設けられた千葉県域に含められることになった。
明治2年、東京府内の豪商は政府から依頼され、多くの窮民を集め開拓民としてこの地に送り込んだ。この時の開拓民は220戸を数え、七栄の原野の開墾に励み、一時はちょっとした繁華街ができるほど盛んであり、ここに七栄集落が成立した。翌明治3年には東京の開拓民と埼玉県あたりからの開拓民が十倉地区に集まり集落が成立した。現在の七栄や十倉という地名があるのは、開墾が七番目に行われた所が七栄で、十番目が十倉となっている。
しかし、開拓民の生活は苦しく、苛酷な労働に耐えきれず村を去るものが相次ぎ、明治8年の七栄地区の火災が追い討ちをかけ、開拓民の数は激減した。しかし、この後も開拓は進み両国地区に勧業寮本庁が設置され、ここにアメリカから牧羊家を招き、綿羊の飼育と洋式大農法を指導させることとし、下総牧羊場・香取種蓄場が開設された。
その結果、原野は整然たる耕地・牧場となり、羊群も散見できた。これらの事業は後の宮内省管轄「下総御料牧場」として発展する基となった。
明治22年には市制・町村制が施行され、日吉倉・久能・大和・根木名・七栄・新橋・中沢・新中沢・立沢・立沢新田・高野・高松・十倉が合併して「村」を形成することになり、その名を「十三の里」(里はむらの意味)ということから、「富里村」が誕生した。
明治後期から大正・昭和にかけての官有地の民間への払下げや戦後の農地開拓に伴い、開拓による入殖の受け入れで人口も増加し、ほぼ現在の規模になった。
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