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鎌ヶ谷市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
鎌ケ谷市は、千葉県の北西部、北総台地のなだらかな緑の大地の上に広がる総面積21.11平方キロメートルの都市です。
市内には、東武野田線・新京成電鉄・北総鉄道・成田スカイアクセスの鉄道4線と道路網が発達しており、都心から25キロメートル圏内にあることから、首都近郊の住宅都市として発展してきました。
鎌ケ谷市は、昭和46年9月1日に人口44,760人を擁して、県下24番目の市となりましたが、その後の着実な人口増加により平成8年には10万人を超え、平成24年4月1日現在で、108,816人となっています。
こうした発展の中にありながら、豊かな農地や緑の環境をもち、梨の名産地としても全国にその名を知られています。
▼歴史
縄文時代の貝塚が発見されていて、現在の貝柄山公園の名称の由来ともなっている。
鎌倉時代には相馬氏が佐津間を所領としていた。
江戸時代には本多氏が現在の鎌ケ谷市の一部を所領としていた。
江戸時代には小金牧の一部とされ、野生馬の供給地ともなっていた。現在の馬込沢はその前の時代の名残とも言われている。
1616年(元和2年):原田勘兵衛が幕府より中沢の地を与えられる。
1687年(貞享4年):松尾芭蕉が「鹿島紀行」の途上、鎌ケ谷(小金牧)を通る。
1776年(安永5年):大黒屋文右衛門(福田文右衛門)が鎌ヶ谷大仏を建立。
1825年(文政8年):渡辺崋山が宿を取る。「四州真景図」の2巻に行徳などと並んで「釜原」の絵がある。
1869年(明治2年)5月19日:下総の牧を開墾するために政府の求めで開墾会社が設立される。総頭取三井八郎右衛門、以下社員37名。事業完結後には広大な開墾地を保有して大地主になれるという約定。湯浅七兵衛(現在のユアサ商事創業家の一族)、大村五左衛門、加太八兵衛が初富担当。
1869年(明治2年)10月:入植者募集が行われる。最終的には1760世帯、6500人が応募。(全員が鎌ケ谷に来たのではなく、下総の各開墾地に送り込まれた。)
1869年(明治2年)10月2日:下総国開墾局知事北島秀朝が粟野村で「初富」の地名を公式に宣言する。「初富」という地名は「一番始めに開墾が行われ、富み栄えてほしい」という祈念により命名された。
1869年(明治2年)10月27日:午前5時頃、入植者第1陣49世帯169人が初富に到着。以下、年内に第5陣まで順次入植し総勢311世帯、1136人。その名簿「初富農舎人員帳」は財団法人三井文庫に保存されている。
1869年(明治2年):初富を皮切りに大規模な開拓事業が行われる。初富に続いて開拓された地名は2番目の二和、3番目の三咲(以上船橋市)、以下、豊四季(柏市)、五香、六実(以上松戸市)、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三の初富を入れて全13個所。
1872年(明治5年)5月:開墾事業の失敗で開墾局、開墾会社が廃止される。
1872年(明治6年)5月:湯浅七兵衛が、豊作稲荷神社を勧請。
1872年(明治5年):鎌ケ谷に郵便局創立。三等局。集配区域は鎌ヶ谷・法典・豊富村。
1874年(明治7年):鎌ケ谷小学校開校。
1882年(明治15年):陸軍が調査・測量した「陸軍偵察録」を著す。抜粋(現代語に訳)「初富・二和・三咲の3村は明治2年に無籍・貧民対策で開墾事業を行い、多く東京の貧民を移住させたが、追々東京に留まるようになり、戸数・人口は次第に減っていきほとんど3分の1になった。そのため一度は畑にした原野もだんだん草野に戻っているところが多い。」
1889年(明治22年):鎌ケ谷・初富・粟野・中沢・道野辺・佐津間の6村と印旛郡根村(現在の白井市の一部)から分村した軽井沢地区が合併して「鎌ケ谷村」成立。
1909年(明治42年)9月28日:東葛人車鉄道(中山~鎌ケ谷間)開通。
東葛人車鉄道1917年(大正6年):東葛人車鉄道撤廃。このころの交通状況「県道二線南北を過ぐるも、険悪にして交通不便なり」
1919年(大正8年):このころ鎌ヶ谷駅付近「春の蕨、松露、秋の茸狩に適し、都人士の来遊多し」
1920年(大正9年):第一回国勢調査で鎌ケ谷村は戸数686、人口4160(男1996、女2164)
1922年(大正11年)5月:鎌ケ谷小学校、中野小学校、明小学校(初富に所在)を鎌ケ谷尋常小学校として結合。(大正8年時点の児童数はそれぞれ134名、147名、186名)
1923年(大正12年)12月27日:北総鉄道船橋線(現在の東武鉄道野田線)開通。
1949年(昭和24年)1月8日:新京成線(滝不動駅〜鎌ヶ谷大仏駅間)開通。
1958年(昭和33年)8月1日:町制施行。
1971年(昭和46年)9月1日:市制施行。
1979年(昭和54年)3月9日:北総線(北初富駅〜小室駅間)暫定開業。
1991年(平成3年)3月31日:新鎌ヶ谷駅開業。都心へのアクセスが向上する。
2004年(平成16年)4月3日:新鎌ケ谷地区の街びらきが行われる。
2012年(平成24年)7月1日:鎌ケ谷市スポーツ施設のネーミングライツスポンサーがくすりの福太郎となる
一部wikipedia引用。※一部鎌ヶ谷市HP引用。
富津市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
富津市(ふっつし)とは、千葉県の南部、東京湾に面した市である。
北部沿岸には富津岬が突き出しているのが特徴である。
山:鋸山、高宕山、三舟山、鬼泪山
岬:富津岬、磯根崎、明鐘岬
河川:湊川、白狐川
▼沿革
現在の富津市は1971年に新設合併で誕生した3代目の富津町が市制施行したものであるが、ここでは前身となった旧富津村、旧富津町についても述べる。2代目富津町までは旧周淮郡内の小さな町にすぎなかったが、3代目富津町が旧天羽郡全域を町域に収めたことで現在の市域が成立した。
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行により富津村、川名村、篠部村、新井村が合併し、周淮郡富津村が発足。
1897年(明治30年)4月1日-周淮郡が統合されて君津郡が成立。
1897年(明治30年)12月1日-町制を施行し富津町(初代)を新設。
1955年(昭和30年)3月31日-青堀町、飯野村と合併し、改めて富津町(2代目)を新設。
1971年(昭和46年)4月25日-大佐和町、天羽町と合併し、改めて富津町(3代目)を新設。
9月1日-市制を施行し、富津市となる。
▼歴史
市名の由来は日本武尊伝説によるものとされている。嵐を静める為に海に投身した弟橘姫の袖が海岸に流れ着いたことに由来する(布流津)。この布流津(ふるつ)が転じて富津になったとされている。
※袖が流れ着いた地名は袖ヶ浦。布流津の布は弟橘姫の腰巻が小糸川の飯野の地に流れ着いた事に由来する。
市域には縄文時代・弥生時代からの遺跡が数多く分布する。房総半島では古墳時代を通じて古墳が数多く分布しているが、市域では5世紀中頃の内裏塚古墳を頂点とする内裏塚古墳群の存在があり、埴輪や金銅製品などの副葬品が出土している。また、古墳後期の横穴式石室を持つ後期古墳も分布する。
律令制下では上総国天羽郡全域・周淮郡の一部に属する。平安時代後期には、治承・寿永の内乱において治承4年(1180年)に源頼朝が平家方に敗退して安房国へ渡っており、市域にも関係する伝承が残されている。鎌倉時代には称名寺の寺領があり、古戸(富津)の地から年貢の輸送が行われた。戦国期には佐貫城を拠点とする真里谷武田氏や房総へ進出する里見氏が支配した。永禄10年(1567年)には、隣接する君津市との境界にあたる三船山において里見氏と北条氏の合戦が行われた(三船山合戦)。
浦安市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
浦安市(うらやすし)は、千葉県北西部にある市。市内に東京ディズニーリゾートがあることで全国的に知られる。
東京湾の最奥部、旧江戸川(江戸時代までは太日川)の河口左岸の低平な自然堤防、三角州および埋立地からなる。市域の約4分の3は1960年代後半以降造成された埋立地が占めており、かつては3kmほど沖まで続く遠浅の海が広がっていた。旧村の集落はいずれも江戸川の派川である境川両岸の自然堤防上に位置する。
自然地形としての山や丘は市内に存在しない。築山としては、中央公園に高さ14mほどの通称「浦安富士」がある。
≪河川≫
旧江戸川(きゅうえどがわ)
境川(さかいがわ)-今川、江間川(えまっか)とも
堀江川(ほりえがわ)
見明川(みあけがわ)
猫実川(ねこざねがわ)
▼歴史
明治22年(1889)4月、町村制の施行にともない、堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」となり、明治42(1909)年9月に「浦安町」となった。東京に隣接しながら三方を海と川に囲まれた陸の孤島であったため、明治、大正、昭和も戦前までは大きな発展はなかった。
しかし、昭和37(1962)年に漁業権の一部を放棄、昭和39(1964)年から海面埋め立て事業が始まると浦安は大きく姿を変えていった。昭和44(1969)年に地下鉄東西線が開通し、また昭和46(1971)年に漁業権を全面放棄して第2期海面埋め立て事業が行われた結果、総面積はかつての4.43平方キロメートルの約4倍の16.98平方キロメートルに拡大、急速に都市化が進んだ。
以来、昭和56(1981)年4月に待望の市制施行「浦安市」が誕生した。昭和58(1983)年には東京ディズニーランドがオープン、その後も周辺地区に大型リゾートホテルなどが建設され、国際色豊かな街になった。昭和63(1988)年12月にはJR京葉線も開通し、新浦安、舞浜の駅周辺の整備も進み、浦安は東京ベイエリアを代表する都市として発展を続けている。
一部wikipedia引用。※一部浦安市HP引用。
四街道市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
四街道市(よつかいどうし)は、千葉県の北部に位置する市。都心から40km圏内、県都・千葉市中心部からも8kmと利便性の高い立地条件である事から、JR四街道駅周辺はマンションや住宅地が立ち並び、首都圏のベッドタウンとして発展してきた。また、再開発の進む四街道駅南口には、228基ものガス灯が立ち並び、長さも約2,300mと日本一の長さである。
一方、梨、落花生などの生産が盛んな近郊農業地帯でもある。
千葉県中北部の内陸に位置し、下総台地の南に位置する。南と西に千葉市、北と東に佐倉市が隣接しており、市の東縁を利根川水系の鹿島川が印旛沼へと北流している。
市の中央部南方をJR総武本線が南東から北西に、中央部北方を東関東自動車道が東西に走っており、当市の中央部南方に四街道駅が、北東部に物井駅と東関東自動車道の四街道インターチェンジがある。
市の南部を国道51号が南東から北西に走っており、「吉岡交差点」[1]は交通情報の渋滞情報でよく登場する。
▼沿革
1955年(昭和30年)3月10日-四街道町発足千代田町と旭村(馬渡は佐倉市へ編入)が合併し、人口18,014人の印旛郡四街道町が誕生。
1957年(昭和32年)1月1日-北部5集落(羽鳥、飯重、吉見、生ヶ谷、畔田)を佐倉市へ編出。
1959年(昭和34年)2月1日-大日の飛地を千葉市へ編出。
1981年(昭和56年)4月1日-市制施行国勢調査で人口が約6万人となり、市制規定人口(5万人)を超えたため市制施行を行い四街道市となる。(※同県浦安市と同日に市制施行。)
12月-四街道駅が橋上化される。
2001年(平成13年)5月5日-山梨地区にある工場の作業員宿舎で火災が発生、11人が死亡した。
2003年(平成15年)2月-四街道市の住民の発議により、千葉市との法定合併協議会が設置される。
2004年(平成16年)5月16日-「千葉市との合併の是非を問う住民投票」が行われ、反対票多数により千葉市との合併は白紙となった。
▼歴史
かつて古代には物部氏に関係した下総国千葉郡物部(現在の物井地区周辺)と山梨(現在の山梨地区周辺)という里・郷名であった。中世期には下総国臼井荘へと変わり、約600年もの間「千葉一族」の所領となった。その後徳川家康により関東が平定され、江戸期には佐倉藩・幕領となった。幕末には下志津原に佐倉藩の砲術練習所が置かれ、その後1886年(明治19年)4月に「陸軍砲兵射的学校」が創立され、1897年(明治30年)に「陸軍射撃学校」と改称され四街道駅の北側に移転してきた。この事により、四街道の町は軍都として発展を遂げていく。1922年(大正11年)「陸軍野戦砲兵学校」と改称。しかし、終戦と同時に軍は解体(現在残るのは「陸上自衛隊下志津駐屯地)。その後、旧陸軍施設跡地は、宅地・行政・文教・商業施設などに転換され現在に至っている。
一部wikipedia引用。※一部四街道市HP引用。
袖ヶ浦市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
袖ケ浦市は、東京湾沿い、千葉県のほぼ中央に位置し、羽を拡げた蝶のような形をしています。東部は市原市、西部は木更津市に接し、北部は鋸の歯のような形状で東京湾に臨んでいます。
本市は、平成3年4月1日、全国で656 番目、県下で29番目に市制を施行しました。このとき君津郡袖ヶ浦町(きみつぐんそでがうらまち)から現在の袖ケ浦市(そでがうらし)になり、大きい「ケ」を採用するようになりました。
▼歴史
「古事記」には、「大和朝廷の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が相模国から東征の折り、走水(東京湾)を渡る際に大時化にあい、妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に身を投じて海神の怒りを鎮め、尊の渡海を助けた。」と記されています。
そこから妃の袖が流れ着いたという言い伝えが生まれ、「袖ケ浦」という由緒ある名が付いたと言われています。
一部wikipedia引用。※一部袖ヶ浦市HP引用。
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