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我孫子市ってどんな街?
●町紹介♪
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「あびこ」の由来
「我孫子」という地名は非常に難読な地名として知られています。現在のところ、我孫子市域をさす「アビコ」として資料的に最古のものは、鎌倉時代末の正和2(1313)年の「尼しんねん譲(ゆずり)状」(土地の相続をめぐる遺言書)に「しもつさのくにあひこのむら」(下総国我孫子村)とあるものと考えられています。これにより少なくとも鎌倉時代には我孫子市域が「アビコ」として呼ばれていたことがわかります。それ以前の奈良・平安時代の公式な文書では我孫子市周辺は「下総国相馬郡」と呼ばれていて、我孫子という地名は確認されていません。
それでは、我孫子の由来とは一体どのようなものでしょうか。古代において「我孫子」は氏(ウジ)や姓(カバネ)という、血筋や職種にかかわる苗字のようなものであり、人名として使用されていました。表記は異なりますが「阿毘古」「我孫公」という人の記録が残されています。古墳時代(3世紀から7世紀)にかけて日本列島で大きな権力を有した大王(オオキミ、のちの天皇家につながっていくとされる)や大和地方の有力豪族は、各地の地方豪族を支配下におさめる際に、豊かな土地を直轄地とし、そこに住む人々から貢納物を納めさせました。その際に土地やそこに住む人々に「我孫子」という名前が付けられたと考えられます。大阪や奈良をはじめ、全国各地に「我孫子」「安孫子」「吾孫子」などの地名や人名が認められるのはこのためであると思われます。
また発掘調査の成果からみると、我孫子には水神山古墳(高野山、全長69mの前方後円墳。4世紀後半。千葉県北西部地区最大の古墳)が作られ、古墳時代の早い時期から大和政権とつながった人物がいたと考えられることから、文字として残されてはいませんが、大王や大和政権との深い結びつきから「我孫子」の地名が付けられたと考えられるのです。
▼歴史
旧石器時代より人類が住んでいた痕跡が確認されており、江戸時代には利根川の水運が隆盛したこと、水戸街道沿いに我孫子宿ができたことで、交通の要衝として大きく発展した。明治時代に入り鉄道や自動車、汽船などの交通機関が発達するにつれて、利根川の水運は衰退したが、現在のJR常磐線・成田線の開通に伴いベッドタウンとして人口が増加した。
1911年(明治44年)に嘉納治五郎が別荘を構える。嘉納は現在の我孫子市白山に土地を購入し農園を設け、「嘉納後楽農園」と名付けている。この嘉納の甥である柳宗悦が1914年に移住し、彼に誘われる形で1915年には志賀直哉が移住している。この時期我孫子で執筆された作品に、「城の崎にて」「和解」「暗夜行路(前篇のみ)」がある。さらに1916年には武者小路実篤が移住し、1922年には瀧井孝作が居を構える。さらに中勘助も、志賀直哉とのつながりから仮寓している。加えて柳宗悦の屋敷内にバーナード・リーチが窯を築くなど、明治後期から大正時代にかけて多くの文化人が移り住み、白樺派の拠点にもなる。その他、村川堅固(西洋史学者)や杉村楚人冠(ジャーナリスト、随筆家)、柳田國男(民俗学者)、坂西志保(教育家)なども居を構えていた。
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