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多古町ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
多古町(たこまち)は、千葉県香取郡にある町。
下総台地と九十九里平野に挟まれ、町の中央部を九十九里平野最大の河川である栗山川が流れている。西は成田空港に接している。
面積:72,68km2
人口:15,776人(平成24年4月1日現在)
世帯数:5,490世帯
地勢:
北総大地の東側に位置し、東西約14,5km南北約11,5kmで面積は県内町村の中で2番目の広さです。
町中央部を南北に流れる栗山川の流域は、低地で水田地帯が広がり多古米の産地となっています。
北部及び東部は台地が広がり畑地帯を囲むように山林が緩傾斜面となっています。
▼沿革
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行に伴い、多古村、東条村、久賀村、中村、常磐村が発足。
1891年(明治24年)6月29日-多古村が町制施行し多古町(初代)となる。
1946年(昭和21年)10月9日-成田鉄道多古線が廃止。
1951年(昭和26年)4月1日-多古町、東条村が合併し多古町(2代目)を新設。
1954年(昭和29年)3月31日-多古町、久賀村、中村、常磐村が合併し多古町(3代目)を新設。
1970年(昭和45年)4月1日-国道296号が制定。
2001年(平成13年)-道の駅多古が開業。
▼歴史
縄文時代:丸木舟など、縄文時代の遺跡が多数発見されている。
弥生時代:稲作が盛んになり、現在でも「多古米」はブランド米として知られる。
古墳時代:房総最古の埴輪が発見された墳丘全長82メートルのしゃくし塚古墳に代表される柏熊古墳群や、73メートルの北条塚古墳を有する北条塚古墳群、そして小川土仏古墳群、内野古墳群、坂並白貝古墳群、淀台古墳群、飯土井台古墳群などの群集墳が数多くあり、九十九里浜から香取海へ通じる要衝であった。
平安前期:九十九里浜から香取海、さらに陸奥国への交通の要衝であり、延暦16年(797年)に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷征討の途中松崎神社に参拝したと伝えられている。
平安後期:房総藤原氏の領した千田荘(現在の多古町)は上総下総両国の中心であったが、治承4年(1180年)に皇嘉門院判官代藤原親政(千田親政)が源頼朝に敗れ[1]、以後千葉氏の所領となった。
南北朝時代:文永の役の負傷がもとで肥前国小城郡で没した千葉頼胤に代わって嫡男の宗胤が九州に赴いた間に千葉氏の家督を弟の胤宗に横領されてしまった。千田荘を本拠とした宗胤の嫡男胤貞は、折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方について、南朝方についた胤宗の子貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没し宗家の地位を失った千田氏はその後衰退した。
室町時代:馬加康胤の裏切りに遭い、千田荘に逃れて再起を図った千葉氏18代当主・千葉胤宣が康正元年8月12日(1455年9月23日)に多古城の近くの阿弥陀堂で、胤宣の父・胤直は8月15日(9月26日)に東禅寺で、胤直の弟・胤賢も9月7日(10月17日)に小堤城(現在の横芝光町小堤)で自刃、千葉氏宗家の嫡流が滅亡した。千葉氏宗家に仕えていた飯篠家直は、この様を目の当たりにし武芸をもって武士として生きることに虚しさを覚えた。そして厳しい修行の末「兵法とは平和の法なり」との悟りを得、天真正伝香取神道流を創始したと言われる。
江戸時代:徳川家康の江戸入府に伴い、保科正光が多古に入部した(その後、松平(保科)家は高遠藩を経て子の正之は会津藩主)。天領時代を経て、松平(久松)家嫡流の勝義が多古を領し、廃藩置県まで松平(久松)家の領地であった。
一部wikipedia引用。※一部多古町HP引用。
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