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茅ヶ崎市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
茅ヶ崎市(ちがさきし)は神奈川県のほぼ中央南部、相模湾に面し、東は藤沢市、西は相模川をはさんで平塚市、北は寒川町と隣接しています。市域は海岸線から北部に広がり、南部の海岸と中部の平野は沖積層、北部のなだらかな丘陵地は洪積層の台地となっています。北部丘陵地に源流をもつ千ノ川が北東から南西に流れ、寒川町境を流れる小出川と西南部で合流し、さらに相模川と合流して相模湾に注いでいます。
地形概要
茅ヶ崎市の地形は、北部の丘陵地と相模川や小出川周辺の沖積低地、丘陵地から海岸まで広がる砂丘地帯の3つに大別されます。
丘陵地は、高座丘陵と呼ばれ、香川・甘沼・赤羽根以北の小出地区に位置しています。比較的緩やかな丘陵面が広がっていますが、この台地を小出川や駒寄川などが浸食し、芹沢・行谷・堤・下寺尾などの谷戸をつくり出しています。都市開発に伴い、一部の台地は切土され、谷戸は埋め立て等の人工改変により、元の地形が判別しがたくなっています。
沖積低地は、自然堤防と後背湿地に大別されます。自然堤防は、河川の洪水時に土砂が堆積して出来た微高地で、河川に沿って平行に形成されています。都市化が進行する前は、自然堤防上には小さな集落が列状に立地していました。後背湿地は、自然堤防の外側に位置する1から2メートル程度低い土地であり、洪水時にあふれた水が川に戻れずに湿地化した部分です。水田・荒地・沼地でしたが、現在では多くの後背湿地が埋め立てられて、住宅地や工業地として利用されています。
砂丘地帯は、北部の丘陵地から海岸線までの約4キロメートルにわたる地域に分布し、東西方向に6列の砂丘列が確認されています。幹線道路(国道1号・大山街道・国道134号)は、この砂丘の頂を結ぶように走っています。
地質概要
丘陵地は、通称赤土と呼ばれる関東ロ-ム層で地表が覆われ、赤羽根から芹沢にかけ約10メートル、県立茅ヶ崎北陵高校付近では約15メートル程度の厚さが確認されています。ロ-ム層の下部には、高座丘陵砂礫層や相模野礫層と呼ばれる砂礫層が堆積しています。
沖積低地の上部では、自然堤防には砂層が堆積し、後背湿地には粘土層が5から10メートル程度の厚さで分布しています。
砂丘地帯では砂が堆積し、砂丘高度は相模川西岸で6から9メートル、茅ヶ崎市で12メートル、藤沢市で25から32メートルと西側から東側に著しく高くなる。
▼沿革
縄文時代-北部堤に県内有数の規模を誇る堤貝塚がある。縄文時代後期(紀元前4000年から3500年)の集落址とされる。
飛鳥時代-北部の下寺尾には出土品その他から相模国最古の寺および郡衙があり、高座郡の行政の中心であったと推定されている。
平安時代-末期に関東武士団の大庭氏、懐島氏により新田開発が進む。
1030年(長元3年)-関東最古の源氏の氏社である鶴嶺八幡宮を創建。
鎌倉時代-辻堂および茅ヶ崎東部沿岸を含む広域の地名で「八的ヶ原」(やまとがはら)後に、「八松ヶ原」(やつまつがはら)と呼ばれる。
1198年(建久9年)12月27日-鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝が相模川に懸けた橋の竣工式で落馬し、その怪我が元で翌年薨去したという伝説がある。
1281年(弘安4年)-鎌倉幕府が元寇に対し、蒙古退散の祈祷を鶴嶺八幡宮にて行う。
1728年-享保の改革の一環で、相州炮術調練場を設置する。
1896年(明治29年)-市内南湖に「東洋一」と謳われたサナトリウム南湖院が開院。国木田独歩等多くの著名人が入院した。(1945年閉鎖)
1898年(明治31年)6月15日-鉄道省東海道線の駅として茅ヶ崎駅が開業。
1908年(明治41年)10月1日-高座郡茅ヶ崎村、鶴嶺村および松林村と合併し、茅ヶ崎町となる。駅名として広く知られているという理由から、新町名は茅ヶ崎町とした。町役場は南湖の金剛院に置く。人口は16,860人。
1911年(明治44年)8月-町役場が字梅田(元の茅ヶ崎村役場所在地。現在は茅ヶ崎商工会議所が所在)へ移転。
1921年(大正10年)9月28日-相模鉄道相模線が開業。
1923年(大正12年)9月1日-関東大震災発生。茅ヶ崎駅舎、馬入橋の崩壊を筆頭に多くの建物が全壊し多大な被害が出る。
1947年(昭和22年)10月1日-市制を施行し茅ヶ崎市となる。人口は43,315人。
1955年(昭和30年)4月5日-高座郡小出村の一部を編入。
1963年(昭和38年)7月25日-寒川町との境界を変更する。
1968年(昭和43年)11月1日-寒川町との境界を変更する。
1974年(昭和49年)7月22日-市役所が現在地へ移転。
1988年(昭和63年)3月30日-新湘南バイパスが開通する。
1989年(平成元年)-人口が20万人を突破。
2003年(平成15年)4月1日-特例市となる。
戦前から戦後にかけては保養地、別荘地であったが、急速に東京、横浜のベッドタウンとして都市化が進行した。
▼歴史
旧相模川橋脚と義経伝説
・旧相模川橋脚
・弁慶塚
・御霊神社
国道1号下り線下町屋橋手前を南に入ると、国指定史跡の旧相模川橋脚があります。
この辺りは長い間水田でしたが、1923年(大正12年)の関東大震災とその翌年の地震によって、突然橋脚が水田の中から姿を現しました。
これは1198年(建久9年)に、源頼朝の重臣稲毛三郎重成が亡妻供養のために相模川に架けた橋といわれています。現在の相模川からは約1.2キロほど東へずれていて、氾濫を繰返しながら相模川がその流れを移動していったことがわかります。
源頼朝はこの橋の竣工式に出席した帰途、義経や弁慶の亡霊に遭い、驚いた馬から落馬して、その怪我がもとで死んだという伝説があります。
国道1号線の鳥井戸橋の南側にある御霊神社は、この義経の霊をまつったものといわれ、北側の鶴嶺八幡社参道入口にある弁慶塚は、古い記録にありながら消滅してしまった供養塔を、地元有志が整備復元したものです。
・高砂緑地と松籟庵(しょうらいあん)
・高砂緑地
・松籟庵
茅ヶ崎駅南口から高砂通りを歩いて8分。市立図書館の南側、松の木立に囲まれた一角が高砂緑地です。
「オッペケペー節」で知られる明治の俳優、川上音二郎が愛妾の貞奴と暮らした別荘がこの地にありました。住居跡といわれる井戸枠が松の木立の中に残っています。
音二郎のあとには、「原別荘」といわれた別荘が建ち、「松籟荘」と称する洋館造りの母屋は往年の面影を変わらずに残していましたが、昭和59年に解体されました。
(松籟荘を部分的に復元したものが汐見台の湘南なぎさ事務所にあります)
現在、緑地内には美術館、平塚らいてうの碑、茶室松籟庵があり、51本の梅が咲き誇る松籟庵の庭園は市内随一の梅の名所として、2月には「梅まつり」が行われています。
・鶴嶺八幡社の参道松並木と大イチョウ
・参道松並木
・大イチョウ
江戸時代初期、常光院の僧「朝恵」が荒廃した鶴嶺八幡社の再興に尽力し、徳川3代将軍家光から社領七石の朱印を得たのを記念して、約760mの参道の左右に松の木を植えたのが今に残る松並木で、参道は市の史跡、松並木は市の天然記念物です。
また、社殿の手前右側にある大イチョウは、平安時代に源義家(八幡太郎)が戦勝を祈願して自ら植えたという伝説がある大木で、県天然記念物、かながわの名木100選にも選ばれています。
国道1号鳥井戸橋交差点に参道入口の鳥井があります。
・南湖の左富士
・鳥井戸橋記念碑
・広重の左富士
国道1号を茶屋町から下町屋方面に向かう途中、鳥井戸橋の上から富士山を見ると、国道1号の左側に富士山が見えます。江戸時代の浮世絵師「安藤広重」が描いた「南期の松原左り不二」の舞台となったのがこの場所で、平成6年に建立された記念碑が立っています。
通常東海道の右側に見える富士山が左側に見える場所は、この場所と静岡県の吉原が有名です。
鳥井戸橋から広重の見た富士山を眺めたあとは、川を一つさかのぼって富士見橋へ足を運んでみてください。川の流れの正面に美しい富士山が見えるはずです。
・鉄砲道(てっぽうみち)
・団十郎山の碑
・団十郎山のいわれ
JR東海道線と海岸の国道134号の間を東西に貫く道で、江戸時代に茅ヶ崎から藤沢にかけての海岸に設けられていた鉄砲場の中をぬっていた道というのがその名の由来ですが、現在はちょっとおしゃれなお店が並ぶ散策にお薦めの通りです。
所々に富士山がとてもきれいに見えるポイントもありますので、平塚方面に向かって歩くときは富士山に注目してみてください。平和町交番付近の鉄砲道の北側は、明治の歌舞伎俳優「市川団十郎」の別荘があった場所で、土地の人々には団十郎山と呼ばれて親しまれています。
・腰掛神社(こしかけじんじゃ)
・樹林と腰掛神社
・腰掛玉石
県立茅ヶ崎里山公園を東西に分ける中央の道を約1キロ下ると、杉木立の中に腰掛神社があります。社名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に、この地で石に腰を掛けたという伝説に由来しています。
本殿の手前にはその伝説の腰掛玉石が祭られていて、いつでも見ることができます。
また、風情のある神域の樹林は市の天然記念物に指定されています。
人物で見る
・大岡忠相と浄見寺
・大岡家一族墓所
・浄見寺山門
江戸時代の名奉行「大岡越前守忠相」を出した大岡家は、茅ヶ崎の堤村を領地として治めていました。2代当主忠正が初代忠勝の追善のために建立したのが浄見寺で、大岡家累代の菩提寺です。
山門左の一段高いところに並ぶ一族13代の墓所は市史跡、寺林と墓所の脇に立つオハツキイチョウは県天然記念物です。さらに室町時代作とみられる弁財天坐像は県重要文化財に指定されています。
また、春に行われる大岡越前祭の初日には寺内で盛大な墓前法要が行われます。
アクセス:堤坂下交差点から大岡越前通りを西へ徒歩10分
・小津安二郎と茅ヶ崎館
・中庭
・2番の部屋
日本映画の松竹撮影所が蒲田から大船に移った昭和10年代、映画関係者が数多く茅ヶ崎を訪れるようになり、小津安二郎監督も中海岸の旅館「茅ヶ崎館」でシナリオ製作を行いました。小津監督の定部屋は中庭に面した「2番の部屋」だったそうで、小津三部作と呼ばれる「晩秋」「麦秋」「東京物語」もこの部屋で執筆されました。
生誕100年に当たる2003年10月には、記念行事として映画会や記念品の展示会が行われ、往年のファンで館内は大賑いとなりました。
アクセス:茅ヶ崎駅南口からサザン通りを海に向かって徒歩20分
・小山敬三・萬鉄五郎と美術館
・松籟庵から
・美術館正面
文化勲章受章者で茅ヶ崎市名誉市民の画家「小山敬三」は、昭和初期に茅ヶ崎の南湖にアトリエを構えていました。また、明治・大正の油絵画家「萬鉄五郎」は大正8年、療養を兼ねて茅ヶ崎に移り住み、茅ヶ崎で没するまでに南湖・柳島の風景画を残しました。
高砂緑地の中にある茅ヶ崎市美術館には、2人を始めとする茅ヶ崎ゆかりの作家たちの作品が多数紹介されています。
・平塚らいてうの碑
・選文
・記念碑
「元始、女性は太陽であった」で始まる文芸誌「青鞜」(せいとう)を創刊し、女性運動の先駆者となった平塚らいてうの記念碑が高砂緑地の松林の中にあります。
らいてうにとって茅ヶ崎は、夫となった奥村博との出会いの地であり、子育てや結核になった夫の介護をした思い出深い場所で、1998年5月に「らいてうの記念碑を建てる会」のご尽力により、この地に碑が建設されました。
アクセス:茅ヶ崎駅南口から高砂通りを海に向かって徒歩8分
・国木田独歩の碑
・碑文
・記念碑
茅ヶ崎公園野球場の東南のスタンド裏に、「武蔵野」や「鎌倉夫人」で有名な国木田独歩の追憶碑があります。
独歩ゆかりの地、湯河原から運んだ自然石にはめ込んだ石板に、牧野英一博士が題字を書き、三橋兄弟治画伯が肖像を描いています。
右隣にある碑文からは、結核を患い、茅ヶ崎で闘病生活を送っていた独歩が、荒涼とした海にその心を写していたことがうかがえます。
アクセス:茅ヶ崎駅南口から高砂通りを海に向かって徒歩15分
・野口聡一宇宙飛行士の手形モニュメント
・モニュメント
JR茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキに、野口聡一宇宙飛行士の手形モニュメントがあります。。
茅ヶ崎市ゆかりの宇宙飛行士である野口聡一さんは、2005年7月に打ち上げられたスペースシャトル、ディスカバリー号に搭乗した乗組員の一人です。
この手形は「ちがさき手形ロード計画」を進める茅ヶ崎なぎさロータリークラブが設置したものです。
一部wikipedia引用。※一部茅ヶ崎市HP引用。
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