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平塚市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
平塚市(ひらつかし)は、神奈川県のほぼ中央に位置する市。特例市に指定されている。かつて東海道の宿場町であった。
神奈川県のほぼ中央、相模川右岸(西側)に位置し[1]、南は相模湾に面する。相模川から金目川までの間は市域北端部まで平野となっており、南部には市街地が広がる。金目川より西側は大磯丘陵の一部となる丘陵地帯であり、緑も多い。南部は国道1号とJR東海道本線が横断し、相模川沿いに国道129号が縦断する。北部から中西部にかけては、東海道新幹線と小田原厚木道路がやや離れて横断している。首都圏にある人口25万を超える都市であるにもかかわらず、鉄道の旅客駅はJR平塚駅のただ一駅だけである。
<川>
金目川(花水川)、相模川(馬入川)
<山>
高麗山(湘南平)
▼沿革
縄文時代-市内五領ヶ台、万田に集落が発生する。五領ヶ台の縄文遺跡では住居跡、貝塚等が検出されている。この遺跡は「五領ヶ台貝塚」として、1972年、国の史跡に指定された。ここから出土した土器は五領ヶ台式土器と称され、縄文時代中期の土器の代表的な様式のひとつとされている。
弥生時代-中原上宿、南原、上之入(市内岡崎)に集落発生。
4世紀後半-真土大塚山古墳、塚越古墳が築造される。(現在、大塚山古墳は消滅。ここからは三角縁神獣鏡やその他の貴重な遺物が出土している。塚越古墳は調査が続いている。(2009年9月現在))
奈良時代(8世紀ごろ)現在の平塚市四之宮周辺に下ノ郷廃寺が存在し、国厨・郡厨・大住厨と書かれた墨書土器が出土していることから、既にこの時期に相模国大住郡という行政組織が機能していたことが窺える。また相模国国府跡とも大住郡庁跡ともいわれている。
9世紀終から10世紀初頭-伝承によると、この頃平真砂子(高望王の妹)がこの地で没する。(「平塚の塚」の項に詳述。)
11世紀から13世紀から前半(和田合戦まで)-高望王を祖とすると号する中村党の土屋宗遠が土屋周辺を、同じく高望王系である三浦党の岡崎義実(中村宗平の女婿)が岡崎周辺、その子佐奈田義忠が真田周辺を支配。
1199年-相模川に架けた橋を源頼朝が馬で渡ろうとしたところ落馬し、これが頼朝の死去につながったという説があり、以降の相模川は馬入川の別名で呼ばれることになる。
ただし当時の流域は茅ヶ崎市だったという説がある。詳しくは旧相模川橋脚を参照。1416年-上杉禅秀の乱の功により中村党系の勢力は所領を失い大森氏の領するところとなる。
1512年-北条早雲が三浦氏の岡崎城攻略。以降、小田原北条氏(後北条氏)の領するところとなる。
1590年-豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、徳川家康が入封。
1596年-徳川家康により中原御殿(現平塚市立中原小学校-日枝神社)が造営される。現代の中原街道という街道名はこれに由来する。また、同時期に造営された小杉御殿は現在の川崎市中原区にあった。伝承ながら御殿裏門が市内南原の善徳寺三門に移築され遺構として残る。
1881年-湘南社結成。国会期成同盟が全国統一組織として自由民権運動を推進していたが、神奈川では独自に活動がおこなわれていた。その先鞭をつけたのがこの湘南社であり、現在の行政区分で言うと大磯町に本部を、秦野・平塚・伊勢原に支所(講学会場)を設置した。のちに県下初の盲学校・私立中郡盲人学校を設立した宮田寅治などが主要メンバーとして知られる。
1945年7月16日-平塚大空襲。陸軍戦闘機「疾風」で有名な日本国際航空工業や、第二海軍火薬廠、横須賀海軍工廠分工場、第二海軍航空廠といった軍直轄の軍需工場の密集する平塚市は、当時の市域(現在の東海道線平塚駅を中心として概ね半径2キロの地域。旧平塚市)における面積の約8割、戸数の約6割を焼失、死者237名、重軽傷者268名、罹災戸数7,678戸の大被害を受ける。このとき落とされた爆弾(主に焼夷弾)の数は1162.5トン、447,716本で東京都八王子についで第二位となった。
1951年-第1回七夕まつり開催。前年に開催された(平塚大空襲の)復興祭りが起源とされる。集客数は約300万人であり、これは仙台の約220万を抜いて全国一位である。
行政区域の変遷
1889年4月1日神奈川県大住郡に平塚町・須馬(すば)村・大野村・神田村・城島村・岡崎村・金田村・小中村・豊田村・土沢村・金目村・大根村が、淘綾郡(ゆるきぐん)に山背村が誕生
1896年3月26日大住郡と淘綾郡が合併、中郡となる
1909年4月1日小中村・山背村が合併し旭村となる
1927年1月1日須馬村に町制施行、須馬町となる
1932年4月1日平塚町と須馬町が合併し市制施行。平塚市の誕生
1944年2月11日大野村に町制施行、大野町となる
1954年7月15日旭村を編入
1955年3月2日中郡大根村真田地区が金目村に編入
1956年4月1日豊田村が大野町に編入
1956年9月30日大野町・神田村・城島村・岡崎村(馬渡・大句地区を除く)・金田村・土沢村を編入
1957年10月1日金目村を編入
▼歴史
平塚と言う名は鎌倉時代から史上に現れている。このあたりは、鎌倉幕府の開設
以来、鎌倉と京を結ぶ街道として文物の往来があったところである。
室町時代には、大森氏が平塚城を築いているが、文明10年(1478)に太田道灌
により攻め落とされ廃城となっている。
江戸時代に入り宿駅が制定された時点では、平塚宿はいわゆる本宿だけであったが宿駅の窮乏から慶安4年(1651)本宿の東に新宿が加えられた。
しかしそれでも平塚宿は小規模な宿場だったようである。
明治以降は、海軍火薬工場をはじめとする工場が建ち県中央部の先進的工業地帯へと変貌した。しかし、このため昭和20年7月に大空襲で五町の内柳町を残し、残り四町が全て焼失し焼け野原となった。
そのため宿場らしい面影を見出すことはできないが、西組問屋場跡のあたりから前方に見える高麗山の姿は浮世絵のままである。
東海道五十三次・平塚宿
日本橋から十五里半(約62キロ)徒歩で約15時間半
天保14年(1843)の宿場は、人口2114人・家数443軒・旅籠54軒・本陣1軒
である。
今、平塚市で一番の繁華街はJR平塚駅前から旧東海道に出た通りだが、
かっての平塚宿の入り口は、現在の平塚市民センターの辺りであり、ここに立つ
「平塚見附跡」碑から西組問屋場まで、脇本陣跡、高札場跡、本陣跡等の
碑がたっている。
平塚宿模型 平塚市博物館蔵
平塚宿絵図(文化8年) 平塚市博物館所蔵
平塚宿は東海道沿いに左右帯状に家並みをなし、その長さは平塚
新宿を含め十九町五間(約二キロメートル)海岸をはさんだ南側は
御林が海岸まで続き、南側は田畑や御林であった。
平塚市博物館所蔵
建坪111坪内部は書院造りで、湯殿(ゆどの・風呂場)、雪隠(せつ
いん・便所)なども、宿泊者と本陣家族では別々に設けられていた。
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