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プロパンガス協会

プロパンガス協会の公式BLOGです。料金・価格の適正化を推進する団体です。プロパンガスをご利用の方はご自身で料金診断ができます。勝手な値上げはしないガス事業者をご紹介致します。

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神奈川県相模原市のプロパンガス価格の適正料金とは!? ~プロパンガス協会~

プロパンガス協会


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【年間金額】
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神奈川県市区町村一覧はこちら

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相模原市ってどんな街?

●町紹介♪

▼地理
 

相模原市(さがみはらし)は、神奈川県北部にある政令指定都市。緑区、中央区、南区の3区で構成される。
2006年3月の合併以前の旧相模原市域は、隣接する町田市との経済的・地理的・文化的関わりが深く、共に業務核都市に一つの都市として指定されていた。近年、東京都心へ旧市域南部の相模大野から30分ほど、旧市域北部の橋本から40分ほどで行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとしての人気が高まり人口が爆発的に伸びている。特に20代、30代、50代周辺の人口が多く、市全体を活気ある雰囲気にしている。
 
市内には相模原公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然な環境が近いことなどから若年世帯を中心とした人口の流入が続いている。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多く、更に多数の大学を抱える八王子市への交通が便利なため、学生の街としての顔も併せ持つ。また、市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパス(開所時は文部省宇宙科学研究所)があり、日本の宇宙科学の研究拠点として知られる。
 
また編入した旧津久井郡4町のうち、城山町と津久井町は橋本駅を最寄り駅として利用しており、国道413号(津久井街道)を介して相模原市中心部との結びつきがあるのに対し、相模湖町と藤野町は相模原市中心部よりも、JR中央本線や国道20号(甲州街道)を介して、八王子市との結びつきの方が強い。
 
地形
相模川左岸の相模原台地上に位置する平坦な東部・旧相模原市域(中央区・南区および緑区東部)と、南の丹沢山地と北の高尾山・陣馬山などの間に広がる山地を相模川などが刻み、河岸段丘上にわずかな平坦面が散在する西部・津久井地域(旧津久井郡、緑区の大半)とに分けることができる。ただし、津久井地域のうち旧城山町東部は地形的に連続する旧相模原市域と合わせて相模原台地の一部として理解するのが適当である。
 
相模原台地
新昭和橋付近(厚木市上依知)から望む相模原台地
相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)は相模川が作った扇状地が隆起して形成された洪積台地である。西側の相模川に沿って、気候変動や海水面の変化によって形成された河岸段丘が発達している。
 
大きく3段に分けられる段丘面のうちでは上段(相模原面)が最も広く、旧市域の半分以上を占め、旧城山町東部の大半もこの段丘面上に広がる。緑区川尻(旧城山町)の川尻八幡宮付近の標高約180mを最高点に南東へ向かって徐々に高度を下げ、緑区橋本六丁目の神明大神宮付近で約140m、南区東大沼二丁目の大沼神社付近で約100m、南区相南三丁目の東海大学付属相模高等学校付近で約85mとなり、南の大和市や座間市に続く。段丘面上は平坦ではあるが水に乏しく、利用が進まずに原野が広がっていた。相模原または相模野とは、主にこの原野について呼んだものである。
 
江戸時代以降に行われた新田開発によって畑と雑木林の広がる景観となった。
日中戦争下、1930年代に新興工業都市の政策により、軍事施設(当市域では主に陸軍)が相次いで進出し、北部では「軍都計画」と呼ばれる大規模な都市計画に基づく土地区画整理事業が当時の内務省神奈川都市計画地方委員会(野坂相如、浅野英ら)によって行われた。1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、戦後しばらく経ってから区画整理事業は再開し、完成した。そして1960年代以降急速な都市化が進行した。
 
現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、南区麻溝台・新磯野地区には農地が広がっている。なお、旧軍施設の中には戦後米軍に接収されたものも多く、現在も返還されていない区域が旧相模原市域の面積の約5%を占める。
 
緑区久保沢から下九沢、中央区上溝を経て南区下溝まで上段と中段(田名原面)の境をなす段丘崖は「横山」と呼ばれる。「ハケ」とも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川、姥川、道保川が段丘崖に並行して南東へ流れるが、これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられている。 下段(陽原[みなばら]面)は3段の中では最も面積が狭く、主に中央区田名地区内の一部(陽原・望地・塩田)を占める。
 
これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、川が南へ向きを変える南区当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せる。田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の小倉橋、大島河原から水郷田名(田名久所[ぐぞ]地区)にかけての区域は大正期から風光明媚な景勝地として知られている。
 
当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川は多摩丘陵を刻む小河谷である「ヤト」(谷戸)や、鳩川などと同じくハケの湧水を水源としているが、これも元の相模川の流路であったと考えられている。以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川だった。そのために戦後徐々に河川改修が進められて橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化された。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、特に町田市との間でほとんど進まず、相互に「川向こうの飛地」を多く抱えている。
 
津久井地域
緑区川尻より望む丹沢山地(蛭ヶ岳 - 丹沢山)の山並み
相模川上流に位置する相模湖。1947年に完成し、戦後にできたダム湖としては日本初である。

宮ヶ瀬ダム建設に伴って形成された宮ヶ瀬湖。周囲の景観の調和、歴史的価値などの観点から評価され、「ダム湖百選」に認定されている。
緑区の中・西部で区全体の面積の9割以上を占める津久井地域は、相模原台地の北西端に位置する旧城山町東部を除くと、ほぼ全域を南の丹沢山地や北の秩父山地に連なる山地が占め、両山地の境界をなす相模川と、道志川をはじめとするその支流沿いに河岸段丘が散在するのみの平地の少ない地域である。
 
道志川の南側、旧津久井町南西部の青根、青野原、鳥屋(とや)地区は、丹沢山地の北部によって占められ、大室山から同山地最高峰の蛭ヶ岳を経て丹沢山に連なる主稜線で南の足柄上郡山北町と境を接する。また、主脈と呼ばれる蛭ヶ岳から焼山へ至る稜線は北西側の道志川流域と南東側の中津川支流の早戸川流域(いずれも相模川水系)を分ける尾根となっている。標高は低いながらも険しい壮年期の山地であり、平坦地は道志川南岸の高位に散在する狭小な河岸段丘と、串川上流にわずかに伸びる谷底平野が分布するのみである。前者の河岸段丘群を貫通する国道413号に沿って青根、青野原の集落が、後者の谷底平野に鳥屋の集落とわずかな耕地が分布する外は山林に覆われている。
 
深い谷をうがち谷底平野をほとんど持たない道志川の北側では、石老山、石砂山を経て山梨県上野原市と道志村の境をなす尾根筋が大きく道志川の側に偏って伸び、北の相模川の河谷へ向かって徐々に高度を下げる丘陵によって占められる。旧藤野町南部の牧野(まぎの)地区の集落はこの主に丘陵地の緩斜面に散在する。西に隣接する上野原市秋山地区からは秋山川が流入し、日連(ひづれ)大橋付近で相模川に合流する。
 
一方、相模川の北側では和田峠、陣馬山、景信山、小仏峠、城山(小仏城山)、大垂水峠と連なる尾根筋によって北の東京都八王子市および檜原村と境を接し、西隣の山梨県(上野原市)との境界をなして南流する境川と東側の沢井川のつくる河谷に旧藤野町北部の佐野川、沢井の集落が分布する。
 
これらの山地の間を東西に貫流するのが相模川である。一般に山梨県内では「桂川」と呼ばれ、神奈川県に入って「相模川」と呼ばれるようになるとされているが、旧相模湖町では北岸の与瀬、小原(おばら)両地区を合わせて「桂北地区」と呼んだり、さらに下流側の千木良、若柳地区間に架かる橋を「桂橋」と呼んでいる例も見られる。上流の上野原市と接する小淵、名倉(旧藤野町)から下流側の中沢、城山、谷ヶ原(旧城山町)にかけて、相模川の両岸には相模原台地と同時期に形成された数段の河岸段丘が発達している。この平坦面を連ねて甲州街道(国道20号)、JR中央本線、中央自動車道が通過し、東京(江戸)と甲信地方を結ぶ重要な交通路となっている。
 
旧津久井町北東部では相模川南岸に比較的面積の広い段丘面が広がり、この段丘上に位置する中野地区は津久井地域の主邑として行政の中心となっている。焼山から道志川・相模川と串川に挟まれて伸びる尾根筋の末端の城山は相模川を隔てて相模国中央部の広大な平坦地を見下ろす要害の地に位置し、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏によって築城されたことからこの名があるとされている。
 
段丘上の平坦地に対して相模川の谷底の平坦地(谷底平野)の発達は悪い。この地形を利用して1947年(昭和22年)に相模ダムが、また1965年(昭和40年)には城山ダムが建設され、それぞれのダムによる人造湖として相模湖および津久井湖が形成された。道志川には1955年(昭和30年)に道志ダム(奥相模湖)が建設され、また2000年(平成12年)に完成した中津川の宮ヶ瀬ダムのダム湖(宮ヶ瀬湖)の一部は津久井町にかかっている。これらのダム湖、および川尻地区北部(旧城山町)のヤト(谷戸)の奥に本沢ダムを築いて津久井湖から汲み上げた水を貯めて作られた城山湖との間は導水路で結ばれ、一体的な水資源管理が行われている。

▼沿革
 

相模原市発足までの沿革
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行により高座郡相原村・麻溝村・新磯村・大沢村・大野村・溝村が誕生する。旧田名村は単独で町村制による田名村となった。相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田の合併により相原村が誕生する。
当麻村、下溝村の合併により麻溝村が誕生する。
新戸村、磯部村の合併により新磯村が誕生する。
大島村、下九沢村、上九沢村の合併により大沢村が誕生する。
上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の合併により大野村が誕生する。
上溝村が溝村と名称変更する。

1926年(大正15年)1月1日-溝村に町制が施行され、上溝町が誕生する。
1941年(昭和16年)4月29日相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村の新設合併により相模原町が誕生する。町役場を淵野辺に置く。人口3万9,718、面積107.99km²。合併当時は「全国一面積の広い町」であった。
1941年(昭和16年)9月1日町役場を上溝(旧上溝町役場)に移転
1948年(昭和23年)9月1日座間町が分立する。面積90.77km²となる。
1954年(昭和29年)4月29日町役場を清兵衛新田(現在地)に移転。

相模原市発足以降の沿革
昭和40年代まで1954年(昭和29年)11月20日市制が施行され、相模原市となる。人口8万0,374(全国で453番目、県下で10番目)。
1955年(昭和30年)7月11日工場誘致条例を制定する(1961年(昭和36年)3月1日廃止)。
1957年(昭和32年)11月24日市立体育館が開設される。
1958年(昭和33年)1月1日消防本部を設置する。
1958年(昭和33年)1月15日市民の歌を制定する。
1958年(昭和33年)8月1日首都圏整備法による市街地開発区域の指定を受ける。
1960年(昭和35年)6月1日人口が10万を超える。
1961年(昭和36年)1月1日市営工業用水道が完成する。
1962年(昭和37年)2月20日交通安全都市宣言を制定する。
1962年(昭和37年)6月14日相模原市開発公社(現:(財)相模原市都市整備公社)が設立される。
1962年(昭和37年)12月13日清掃事業所(現:東清掃事業所)が開設される。
1963年(昭和38年)7月18日消防署に救急車を配備、救急業務を開始する。
1963年(昭和38年)10月18日相模原市農業協同組合が設立される。
1964年(昭和39年)1月30日日本電信電話公社(当時)相模原電報電話局が開設される。
1964年(昭和39年)3月16日相模原郵便局が開設される(市内初の普通郵便局)。
1964年(昭和39年)5月1日住居表示を開始する。
1964年(昭和39年)11月20日市制10周年事業として相模原市史発刊を開始する(1972年(昭和47年)全7巻で完了)。
1965年(昭和40年)3月1日市営火葬場が開設される。
1965年(昭和40年)11月20日市立市民会館(相模原市民会館)が開設される。
1967年(昭和42年)6月15日相模原商工会館が開設される。
1967年(昭和42年)8月28日人口が20万を超える。
1967年(昭和42年)8月公共下水道事業を開始する。
1968年(昭和43年)3月1日市の木「けやき」を制定する。
1968年(昭和43年)5月1日市立青年の家が開設される。
1968年(昭和43年)6月26日第1次相模原市総合計画を策定する。
1968年(昭和43年)7月1日市民プールが開設される。
1969年(昭和44年)7月31日座間小銃射撃場が日本政府に全面返還される。
1969年(昭和44年)8月31日市役所本庁舎(現庁舎)が完成する。
1970年(昭和45年)7月1日給食施設のない小中学校のため、南部学校給食センターが開設される。
1971年(昭和46年)7月5日人口が30万を超える。
1971年(昭和46年)7月26日北里大学病院が開院する。
1972年(昭和47年)2月21日相模大野駅周辺土地区画整理事業が始まる。
1972年(昭和47年)5月米軍戦車搬出阻止運動が起こる(〜11月)。
1972年(昭和47年)7月1日消防本部新庁舎が完成する。
1972年(昭和47年)9月1日市立老人福祉センター「渓松園」が開設される。
1973年(昭和48年)5月1日保存樹林第1号を指定する。
1973年(昭和48年)7月20日相模原メヂカルセンター(急病診療所)が開設される。
1974年(昭和49年)3月第2次相模原市総合計画を策定する。
1974年(昭和49年)4月6日市制施行20周年を記念して、第1回市民桜まつりが開催される(〜7日)。
1974年(昭和49年)11月20日市立図書館が現在地に開設される。
1974年(昭和49年)11月20日市の花「あじさい」、市の鳥「ひばり」を制定する。
1974年(昭和49年)11月30日キャンプ淵野辺が日本政府に全面返還される。
1975年(昭和50年)3月31日市財政白書「こども急増びんぼう白書」を発行する。
1975年(昭和50年)4月1日市立療育センター「陽光園」(心身障害者訓練センター)が開設される。
1976年(昭和51年)6月19日夜間急患診療を開始する。
1977年(昭和52年)6月6日人口が40万を超える。
1977年(昭和52年)11月1日人口が横須賀市を抜き、人口規模で県内第3位になる。
1979年(昭和54年)4月13日いきがい事業団が発足する。
1979年(昭和54年)4月27日県立相模原公園が開設される。
1979年(昭和54年)5月13日市のシンボルカラー「みどり」を制定する。
1979年(昭和54年)7月1日公共下水道処理を開始する。
1979年(昭和54年)11月18日市民憲章を制定する。
1980年(昭和55年)9月27日日本国有鉄道(当時)横浜線の複線化が市内全区間で完成する。
1980年(昭和55年)12月6日南清掃工場が完成する。
1981年(昭和56年)4月1日米陸軍医療センターが日本政府に全面返還される。
1981年(昭和56年)4月10日市立市民福祉会館(相模原市立あじさい会館)が開設される。
1981年(昭和56年)5月1日行政用同報防災無線「ひばり放送」が開始される。
1981年(昭和56年)11月1日市立総合体育館が開設される。
1982年(昭和57年)4月9日相模原市が障害者福祉都市に指定される。
1982年(昭和57年)12月5日買物公園道路「グリーンプラザさがみはら」が完成する。
1983年(昭和58年)8月29日市域南部の行政拠点となる市南合同庁舎が完成する。
1983年(昭和58年)11月18日市立市民健康文化センターが開設される。
1984年(昭和59年)4月1日市みどりのまちづくり基金と緑地保全基金を制定する。
1984年(昭和59年)6月1日長野県に「市民たてしな自然の村」が開村される。
1984年(昭和59年)12月3日核兵器廃絶平和都市を宣言する。
1985年(昭和60年)2月第3次相模原市総合基本計画を策定する。
1985年(昭和60年)9月18日市立けやき会館、市立けやき体育館が開設される。
1985年(昭和60年)10月6日中国・無錫市と友好都市を締結する。
1985年(昭和60年)11月16日国民年金保養センター「さがみの」が開設される。
1985年(昭和60年)11月17日市立相模原麻溝公園が開設、ふれあい動物広場が利用開始される。
1986年(昭和61年)7月1日公文書公開制度が開始される。
1986年(昭和61年)10月18日市立教育会館が開設される。
1987年(昭和62年)1月5日住民登録オンラインが開始される。
1987年(昭和62年)3月市営工業用水道が廃止される。
1987年(昭和62年)4月1日市立ひばり球場、県立相模原球場が開設される。
1987年(昭和62年)8月10日人口が50万を超える(全国で22番目)。
1987年(昭和62年)11月8日友好都市関係として銀河連邦をつくり、サガミハラ共和国が建国する。
1987年(昭和62年)11月15日市立相模川ふれあい科学館が開設される。
1988年(昭和63年)3月13日JR東日本横浜線古淵駅が開業する。
1988年(昭和63年)10月1日複合都市「ロビーシティ相模大野」が発足する。
1988年(昭和63年)11月1日初めての有料市営駐車場、相模大野立体駐車場が完成する。
1989年(平成元年)以降1989年(平成元年)4月1日文部省(当時)宇宙科学研究所が移転する。
1989年(平成元年)4月28日(財)市民文化財団が発足する。
1989年(平成元年)10月26日(財)相模原市体育協会が発足する。
1989年(平成元年)12月1日相模原南メヂカルセンター(急病診療所)がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月8日市立文化会館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月9日市立相模大野図書館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)3月30日京王帝都電鉄(当時)相模原線が、部分開業していた南大沢駅より延伸し、京王相模原線橋本駅が開業する。
1990年(平成2年)5月14日消防指令センターが完成する。
1990年(平成2年)9月25日市内初の百貨店、伊勢丹相模原店が開店する。
1991年(平成3年)1月20日市立淵野辺公園アイススケート場・水泳プール(銀河アリーナ)が開設される。
1991年(平成3年)3月16日JR東日本相模線が電化完成する。
1991年(平成3年)5月31日カナダの旧スカボロ市(現トロント市)と友好都市提携。
1991年(平成3年)9月8日市立北総合体育館が開設される。
1991年(平成3年)12月1日北清掃工場が完成する。
1992年(平成4年)7月4日さがみはら男女平等憲章を制定する。
1992年(平成4年)8月19日(財)みどりの協会が発足する。
1992年(平成4年)8月21日(財)産業振興財団が発足する。
1992年(平成4年)10月3日第9回全国都市緑化神奈川フェアが開催される(グリーンウェーブ・相模原'92)。
1992年(平成4年)10月26日市営斎場が完成する。
1992年(平成4年)11月20日相模原市環境宣言を制定する。
1993年(平成5年)4月5日粗大ごみの戸別収集を開始する。
1993年(平成5年)4月12日市立産業会館が開設される。
1995年(平成7年)11月20日市立博物館が開設される。
1996年(平成8年)4月20日市立相模川自然の村公園が開設される。
1997年(平成9年)5月20日市立総合水泳場(さがみはらグリーンプール)が開設される。
1997年(平成9年)8月1日市公式Webサイトが開設される。
1997年(平成9年)11月1日相模原市民ギャラリーが開設される。
1998年(平成10年)9月12日さがみはらグリーンプールを会場に、かながわ・ゆめ国体夏季大会が開幕する(〜15日)。
1998年(平成10年)11月3日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地を除く)の市外局番が「0427」から「042」に、市内局番が「XX」から「7XX」に変更される。
1999年(平成11年)5月3日市立北市民健康文化センター(さがみはら北の丘センター)が開設される。
1999年(平成11年)7月20日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地)の市外局番が「0462」から「046」に、市内局番が「XX」から「2XX」に変更される。
1999年(平成11年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市及び神奈川県大和市との境界の一部を変更し、市面積が90.41km²に減少する。
2000年(平成12年)4月1日保健所政令市に指定されたことから、相模原市保健所が開設される。
2000年(平成12年)5月29日人口が60万を超える。
2000年(平成12年)7月8日さがみはら男女共同参画都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)10月28日さがみはら健康都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)11月20日市が事務事業に「ISO14001環境マネジメントシステム」を導入、認証される。
2001年(平成13年)4月5日児童数減少に伴う市内初の市立小学校の統廃合を実施する。市立北相武台小学校と市立磯野台小学校とが統合し、市立もえぎ台小学校が開校(校舎は北相武台小学校を使用)。
2001年(平成13年)4月21日市立総合学習センターが開設される。
2001年(平成13年)6月30日小児科医による休日・夜間急病診療が開始される。
2001年(平成13年)7月1日市が外部監査制度を導入する。
2001年(平成13年)9月29日市立杜のホールはしもと・市立橋本図書館が開設される。
2003年(平成15年)4月1日中核市に指定される。
2003年(平成15年)4月1日「相模原メヂカルセンター」及び「相模原南メヂカルセンター」が「相模原メディカルセンター」及び「相模原南メディカルセンター」に改称される。
2003年(平成15年)10月11日青山学院大学相模原キャンパスが淵野辺に開校する。
2003年(平成15年)12月1日市内のバス路線が大幅に再編される。これに伴い、33系統・51バス停留所が廃止、4系統が新設、既存の6系統が大幅増発となる。
2004年(平成16年)2月1日上鶴間地区の一部で住居表示を実施、上鶴間本町が新設される。これにより、米軍基地を除く市内の上段部分の住居表示は全て完了となった。
2004年(平成16年)11月1日小田急線小田急相模原駅北口市街地再開発事業が着工する。
2004年(平成16年)11月20日市制50周年。
2004年(平成16年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が90.40km²に減少する。相模原市民16世帯41人が東京都町田市民となる。
2005年(平成17年)7月13日市内公共施設(60ヶ所)にAED(自動体外式除細動器)を配置する。
2006年(平成18年)1月30日コミュニティバス実証運行を開始する。交通不便地区における高齢者等、移動に制約のある市民の生活交通を確保するため、市が主体となって計画。運行業務は相模神奈交バスに委託し、2年間を期限として実験的に実施。経路は、JR東日本橋本駅南口-北の丘センター-北総合体育館-相模川自然の村までの約7kmで、所要時間は片道約30分。運行本数は、上り下りとも8時台-18時台まで、1時間に1本ずつ運行される。
2006年(平成18年)3月20日津久井郡津久井町、津久井郡相模湖町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が244.04km²となり、面積規模で県内第2位になる。旧津久井町の姉妹都市であるカナダのトレイル市と継続して友好都市を提携する。
2006年(平成18年)4月1日市立環境情報センターが開設される。
2006年(平成18年)4月1日市が設置した文化施設・福祉施設・体育施設に指定管理者制度を本格的に導入する。
2006年(平成18年)5月1日日米安全保障協議委員会で相模総合補給廠の一部返還等が基本合意される。
2006年(平成18年)10月1日市コールセンターが開設される。
2007年(平成19年)3月11日津久井郡藤野町、津久井郡城山町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が328.84km²となる。人口が合併特例の政令指定都市昇格要件70万人を超える。
2007年(平成19年)4月1日政令指定都市移行を視野に入れて市組織に局制が導入される。
2008年(平成20年)4月23日さがみはら新都心整備構想を発表する(相模総合補給廠一部返還後の跡地利用計画)。
2009年(平成21年)10月23日相模原市が政令指定都市に昇格することが閣議決定される。
2009年(平成21年)12月21日区名が正式に決定する(緑区、中央区、南区)。
2010年(平成22年)4月1日政令指定都市に正式に移行(日本国内19番目)。それに伴い、市内全域において郵便番号が「228-08xx」及び「229-xxxx」から「252-0xxx」に変更される。
2010年(平成22年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が328.83km²に減少する。
2011年(平成23年)5月15日区ごとのシンボルカラーおよびシンボルマークが発表される。

▼歴史
 

相模国の北部に位置し、旧相模原市域は高座郡に属した。津久井地域の大部分は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれていたが(相模川左岸の津久井町三井および城山町北部は高座郡)、江戸時代には同郡から分離して津久井県と称し、1870年(明治3年)に津久井郡と改称された。

なお、この項では2006-2007年の旧津久井郡4町との合併までは主に旧相模原市域について述べる。津久井地域の歴史については津久井郡の項を参照。

先史・古代から中世
相模川沿いの段丘上には古くからの人々の生活の痕跡が認められるが、市域でも後期旧石器時代末の建物跡とされる田名向原遺跡や、縄文時代中期の大規模集落跡である勝坂遺跡が分布する。
文献資料においては、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(『和名抄』)で相模国高座(たかくら)郡に設置されたと記載されている13郷1駅のうち塩田郷(読みはシホタ)が旧市域内に位置していると比定されている。現在、旧市域南西部の田名地区内の集落名「塩田」が、古代の郷名を継承するものであると考えられている。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、市域は武蔵国多摩郡に成立した横山荘を本拠に同国西南部から相模国北部にかけて割拠した同族的武士団である横山党の勢力下にあり、同武士団の中には粟飯原(相原)、小山、矢部、田名など旧市域北部の地名に由来する名字が見られる。また、旧市域南部は高座郡渋谷荘を本拠とする渋谷氏の勢力下にあった。
鎌倉時代後期には、当麻に時衆教団(時宗)の道場(無量光寺)が開かれた。
室町時代には上杉氏、戦国時代には北条氏の支配下であった。

近世

幕藩支配

江戸時代初期の1633年(寛永10年)には旧市域西部の相模川沿いの村が武蔵忍藩の飛地領とされ、残りの村は幕府直轄領(天領)または旗本の支配地とされたが、時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜したものになっていった。旗本領とされた村の多くは2家以上が支配する相給とされ、幕府あるいは藩との相給とされる村もあった。幕末の段階で1藩単独の支配となっていたのは、旧市域では下野烏山藩領の上矢部村、大島村、田名村の3村のみである。また、清兵衛新田が幕府単独の、上九沢村が旗本佐野家のみの支配を受けていた。

1867年(慶応3年)の大政奉還時点での旧市域各村の支配は以下の通りである。
相原村-旗本領(佐野家、藤沢家)
橋本村-旗本領(藤沢家、別所家、石野家、高木家)
小山村-幕府領、烏山藩領
清兵衛新田-幕府領
上矢部村-烏山藩領
矢部新田村-烏山藩領、旗本領(鈴木家)
淵野辺村-幕府領、烏山藩領、旗本領(岡野氏2家)
鵜野森村-幕府領、旗本領(永井家)
上鶴間村-幕府領、旗本領(大岡家)
上九沢村-旗本領(佐野家)
下九沢村-旗本領(佐野家、加藤家)
大島村-烏山藩領
田名村-烏山藩領
上溝村-幕府領、烏山藩領、旗本領(石野家、森川家、戸田家、高木家、佐野家)
下溝村-幕府領、烏山藩領、荻野山中藩領
当麻村-幕府領、旗本領(千葉家、大久保家)
新戸村-幕府領、旗本領(土屋家、岡部家)
磯部村-幕府領、旗本領(町野家、大津家、大久保家)

これらのうち、幕府領および旗本領は、1868年(慶応4=明治元年)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると、その管轄となった。また、1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、烏山藩領は烏山県、荻野山中藩領は荻野山中県の管轄となったが、同年11月の府県再編によって神奈川県に編入された。

新田開発

原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって1843年(天保14年)に着手され、1856年(安政3年)までに49名が入植して200ha余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田、大沼新田、溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。

台地上の開拓は明治以降も進められた。この時期の開拓地は新開と呼ばれ、橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開がこれにあたる。また、戦後も日本国外からの引揚者や帰農者、戦災者などを入植者として受け入れて旧軍用地の麻溝台や新磯野を中心に開拓が行われた。

新田のうち、「清兵衛新田」と「矢部新田」の地名は合併後も大字として残された。「矢部新田」は住居表示の対象区域とならなかった米軍相模総合補給廠内に現存する。「清兵衛新田」は1974年(昭和49年)に最後まで残った区域に住居表示が実施されて消滅するが、新町名である「清新」はこれに由来するものである

藤沢用田バイパスの約1万9500年前の地層から建造物の柱に使われていたと思われる炭化した木片が出土。日本最古のものである。
 古代 - 東海道付近まで海が入り込み、相模野台地上に竪穴式住居址や貝塚がある。
 天武4年(675年ころ) - 日本書紀に高座郡記される。
 奈良時代-平安時代 - 土甘(とかみ)郷、大庭郷、村岡郷が定まる。
 長治年間 - 大庭御厨成立。
 1325年 - 呑海上人、時宗総本山清浄光寺(遊行寺)を建立。
 14世紀 - 太平記第十巻に藤沢の名が記されている。藤沢の由来は不詳。淵沢、富士見沢からの転訛という仮説あり。
 慶長6年(1601年) - 徳川家康により東海道の宿場藤沢宿が設けられる。慶長5年以前から、鷹狩りなどを目的として藤沢御殿が設けられていた。
 享保13年(1728年) - 相州炮術調練場が置かれる。
 1872年4月 - 羽鳥村に私塾読書院(耕余義塾の前身)開設。 
 1877年(明治10年)7月17日 - エドワード・S・モースが江の島に日本初の臨海研究施設である江ノ島臨海実験所を設置。
 日本初の海洋生物学 発祥の地は湘南の江の島。
 1878年(明治11年) - 郡区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢におかれる。当市域内に以下の町村が編成される。
 高座郡 藤沢宿大久保町、藤沢宿坂戸町、鵠沼村、稲荷村、大庭村、羽鳥村、辻堂村、下土棚村、亀井野村、円行村、石川村、今田村、西俣野村、打戻村、獺郷村、宮原村、用田村、葛原村、菖蒲沢村、長後村、七ツ木村、千束村、遠藤村 鎌倉郡 藤沢宿大鋸町、藤沢宿西富町、柄沢村、弥勒寺村、渡内村、高谷村、小塚村、宮前村、川名村、片瀬村、江の島 1882年(明治15年) - サムエル・コッキングが江の島に植物園を設立する。
 1883年(明治16年) - 七ツ木村と千束村が合併して高倉村となる。
 1887年(明治20年) - 横浜-国府津間の鉄道(後の東海道本線)が開通し、藤沢停車場が開業。
 1888年(明治21年) - 藤沢宿大久保町と藤沢宿坂戸町が合併して藤沢大坂町となる。
 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により当市域に以下の町村が発足する。
 高座郡 藤沢大坂町 ←藤沢大坂町 鵠沼村 ←鵠沼村 明治村 ←羽鳥村・大庭村・辻堂村・稲荷村 六会村 ←円行村・亀井野村・下土棚村・西俣野村・今田村・石川村 御所見村 ←用田村・葛原村・菖蒲沢村・獺郷村・打戻村・宮原村 長後村・高倉村は、福田村・上和田村・下和田村とともに渋谷村の一部となる。
 遠藤村は、堤村・行谷村・下寺尾村・芹沢村とともに小出村の一部となる。
 鎌倉郡 藤沢大富町 ←藤沢駅大鋸町・藤沢駅西富町 村岡村 ←弥勒寺村・小塚村・宮前村・高谷村・渡内村・柄沢村・川名村 川口村 ←片瀬村・江の島 1891年(明治24年)10月24日-10月26日 - 明治天皇が、近衛兵秋期演習観戦のため、藤沢町や六会村を視察する。
 1897年(明治30年) - 江の島・片瀬間に村営桟橋が完成する。
 1902年(明治35年) - 江之島電気鉄道の藤沢-片瀬間(現:江ノ島電鉄)が開通(日本で6番目の電気鉄道)。
 1907年(明治40年)9月18日 - 本市が、陸軍第1師団歩兵第49連隊の徴募区となる。
 1907年(明治40年)10月1日 - 高座郡藤沢大坂町が鎌倉郡藤沢大富町を編入する。
 1908年(明治41年)4月1日 - 藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併して高座郡藤沢町が発足。
 1910年(明治43年) - 江之島電気鉄道の藤沢-鎌倉間が全通する。
 1916年(大正5年) - 東海道本線辻堂駅開業。
 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により市域で4000余戸が倒壊する。
 1926年 - 横須賀海軍砲術学校辻堂演習場が置かれる。
 1929年(昭和4年) - 小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)江ノ島線が開通する。
 昭和初年 龍口寺に長野県(信濃国)松代藩の藩邸(通称:養蚕御殿)が移築される。現在は大書院として使われている。

昭和初期の藤沢(1933年7月) 1933年(昭和8年)4月1日 - 川口村が町制を施行し鎌倉郡片瀬町と改称する。

1940年(昭和15年)10月1日 - 藤沢町が市制を施行し相模原市が発足。人口約3万人。
 1941年(昭和16年)6月1日 - 村岡村を編入する[1]。
 1942年(昭和17年)3月10日 - 六会村を編入する[2]。
 1944年(昭和19年)6月1日 - 藤沢海軍航空隊(司令部・通信学校:善行七丁目、藤沢飛行場:本藤沢四丁目、稲荷一丁目)と海軍電測学校(土棚あたり)が開設される。 11月3日 - 渋谷村が町制を施行して渋谷町となる。
 
1947年(昭和22年)4月1日 - 片瀬町を編入する[3]。
 1948年(昭和23年)7月1日 - 市立図書館が開館。
 1951年(昭和26年)12月24日 - 御所見村との境界を変更する[4]。
 1955年(昭和30年)4月5日 - 小出村大字遠藤、御所見村および渋谷町のうち長後ならびに高倉を編入する[5]。 小出村の残りの地区は茅ヶ崎市へ編入。渋谷町の残りの地区は渋谷村となり、1956年(昭和31年)9月1日に大和町(現:大和市)に編入。
1957年(昭和32年)10月20日 - 綾瀬町との境界を変更する[6]。
 1959年(昭和34年)3月5日 - アメリカ合衆国マイアミ・ビーチ市と姉妹都市提携(相模原市議会議決の日)。 これにより、海岸部観光地を東洋のマイアミビーチとして売り出す。
1959年(昭和34年)6月25日 - 在日米海軍辻堂演習場が返還される。
 1959年(昭和34年)7月15日 - 横浜市との境界を変更する[7]。
 1960年(昭和35年)7月25日 - 綾瀬町との境界を変更する[8]。
 1960年(昭和35年)10月 - 小田急線江ノ島線善行駅開業。
 1961年(昭和36年)7月29日 - 長野県松本市と姉妹都市提携(松本市から来藤した日を提携日とする)。
 1961年(昭和36年)10月25日 - 鎌倉市との境界を変更する[9]。
 1963年(昭和38年)1月25日 - 横浜市との境界を変更する[10]。
 1963年(昭和38年)6月24日 - 藤沢バイパスが開通する。
 1964年(昭和39年) - 東京オリンピックのヨットレースが江の島で開催される。
 1966年(昭和41年) - 小田急線江ノ島線湘南台駅開業。
 1971年(昭和46年)3月25日 - 横浜市および大和市との境界を変更する[11]。
 1971年(昭和46年) - 西部土地区画整理事業が開始される。(現在の湘南ライフタウン・1992年(平成4年)事業完了)
 1981年(昭和56年)11月5日 - 中華人民共和国昆明市と友好都市提携(友好都市提携調印の日)。
 1987年(昭和62年)12月2日 - カナダ国ウィンザー市と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。
 1988年(昭和63年) - 新湘南バイパスが開通する。
 1999年(平成11年) - 湘南台駅に、相鉄いずみ野線と横浜市営地下鉄ブルーラインが延伸開業する。
 2000年(平成12年) - 市制施行60周年記念として特別刊行物を発行し、市民に配布。荏原製作所による、引地川へのダイオキシン流出が発覚。
 2002年(平成14年)11月15日 - 大韓民国保寧市と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。
 2005年(平成17年) - 「辻堂神台一丁目地区土地区画整理事業」(関東特殊製鋼跡地、湘南C-X)が開始される(2009年(平成21年)事業完了)。
一部wikipedia引用。※一部相模原市HP引用。

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