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清川村ってどんな街?
●地理について
清川村(きよかわむら)は、神奈川県の北部に位置する県内で唯一の村である。県内の市町村では最も人口が少ない。
隣接する厚木市は旧愛甲郡だったことから関係が深く、宮ヶ瀬ダム建設によりその大部分が水没した宮ヶ瀬地区の住民の多くは、代替地として同市が整備した宮の里地区に移住している(宮の里は、宮ヶ瀬の民の里という意味合いを込めて命名された)。なお隣接する同郡愛川町とは合併構想もあった。
<山>
新大日、塔ノ岳、丹沢山、丹沢三峰、大山三峰山、仏果山、高取山…etc
<河川>
中津川、唐沢川、本谷川、塩水川、谷太郎川
●沿革について
煤ヶ谷は古く「小谷入郷」とよばれ、12世紀初めごろ、毛利太郎景行が小邸を構えて支配していました。
宮ヶ瀬も14~15世紀初め、矢口入道信吉が開発したとされています。
江戸時代、所領替えが繰り返されて明治17年煤ヶ谷、宮ヶ瀬村の連合により連合戸長役場を設置。 明治22年「煤ヶ谷村外一ヶ村組合」を経て、昭和31年9月30日両村合併、清川村となり今に至ってます。
1873年 - 小学校が開校する。(崇立館第四小学校(現:緑小学校)、崇立館第五小学校(現:宮ヶ瀬小学校))
1884年 - 煤ヶ谷村と宮ヶ瀬村の両村により連合戸長役場が設置される。
1889年 - 町村制施行により、煤ヶ谷村外一ヶ村組合となる。
1926年 - 乗合バスが運行を開始する。
1956年9月30日 - 煤ヶ谷村と宮ヶ瀬村が合併し清川村となる。(合併時の人口:3,158人)
1957年 - 清川村役場庁舎が完成する。
1961年 - 県立煤ヶ谷診療所が開設される。
1964年 - 簡易水道事業を開始する。
1969年 - 建設省(現:国土交通省)が宮ヶ瀬ダム建設計画を発表する。
1969年 - 宮ヶ瀬診療所を開設する。
1969年 - 清川幼稚園を開設する。
1971年 - 学校給食センターが完成する。
1971年 - ごみ収集処理事業を開始する。
1973年 - 清川村民憲章を制定する。
1976年 - 清川村開発公社により、清水ヶ丘団地が完成し分譲を開始する。
1981年 - 宮ヶ瀬ダム損失補償基準の調印式が行われる。
1982年 - 清川村役場新庁舎および住民センターが完成する。
1984年 - 防災行政無線が完成する。
1985年 - 宮ヶ瀬地区住民センターおよび清川村運動公園が完成する。
1986年 - 宮ヶ瀬ダムの建設に伴い、宮ヶ瀬小学校と宮ヶ瀬中学校の新校舎が竣工する。
1990年 - 「緑と文化の交流レクリエーションゾーン構想」を策定する。
1994年 - 2013年(平成25年)度を目標とする「新清川村総合計画」がスタートする。
1995年 - 清川村ふれあいセンターが完成する。
1997年 - 清川村下水浄化センターが供用を開始する。
1997年 - 村立金沢キャンプ場および清川村交流促進センター「清流の館」が竣工する。
1998年 - 宮ヶ瀬ダム試験湛水により宮ヶ瀬湖が誕生。
2000年 - 清川村Webサイトを開設する。
2001年 - 宮ヶ瀬ダム完成。
2001年 - 清川村保健福祉センター「やまびこ館」が完成する。
2003年 - 村営バス「ゆめバス」が運行を開始する。
2005年 - 清川村保健福祉センター「ひまわり館」が完成する。
2011年 - 村内初の保育所が完成する。
●歴史について
昭和48年には、「清川村民憲章」が制定され、村づくりの指針として、また、清川に暮らす人々の共通の「合言葉」として親しまれています。
清川村民憲章
緑の山々、国定公園丹沢の美しい大自然にかこまれて住む、
私たち清川村民は、恵まれた環境にふさわしい近代的産業文化の向上と、
豊かな生活をめざして、ここに村民憲章を定めます。
1.私たちはたがいにたすけあい、明るい村をつくりましょう。
2.私たちは健康に気をつけ、豊かな家庭をつくりましょう。
3.私たちは山や川をきれいにし、美しい村をつくりましょう。
4.私たちはきまりを守りよい習慣を育て、住みよい村をつくりましょう。
5.私たちは教養を深め、文化の高い地域をつくりましょう。
昭和48年10月1日制定
昭和50年代
清川村庁舎完成(昭和57年)
昭和50年代に入ると、村内に新しい住宅地が生まれていきました。 (財)清川村開発公社によって造成工事が進められていた清水ヶ丘団地が昭和51年に完成し、続いて昭和54年には、舟沢地区などでも宅地の開発が進められました。
こうした住宅の開発や人口の増加に対応していくために、昭和55年からは簡易水道の拡張事業も開始されています。
昭和56年には、宮ヶ瀬ダム損失補償基準の調印式が行われ、ダム建設とこれに伴う関連事業も進みました。
昭和57~58年にかけては、厚木市中荻野代替地への水没者の移転が開始されたのを最初に、住居用A代替地の造成、商業用B代替地の造成も進められました。
防災行政無線(昭和59年)
昭和57年には、現在の清川村役場庁舎が完成。 また、昭和59年には、村内全域を対象とした防災行政無線が完成し、災害・緊急時の対応が強化されたほか、広報活動など幅広く活用されています。
昭和60年代・平成年代
昭和60年代に入ると、清川村の都市基盤を確立していくための事業が次々にスタートしました。
昭和61年には、宮ヶ瀬ダムの建設に伴い宮ヶ瀬小学校と宮ヶ瀬中学校の新校舎が竣工しました。また、水没による付替道路の建設が進み、宮ヶ瀬虹の大橋が完成したほか、新しいゴミ処理施設として清川クリーンセンターが完成しました(清川クリーンセンターは、平成9年より焼却施設を休止しています)。
文化面の話題としては、昭和4年を最後に消滅した雨ごいの龍を青少年の健全育成事業「青龍祭」と位置づけ、地元有志の手によって約半世紀ぶりに復活。懐かしい郷土の伝統行事がよみがえりました。
昭和62年には、大径木が林立する美林を後世に残すと共に自然の恩恵に感謝する心を継承するため「清川宝の山」第一次指定を実施しました。
平成2年は、清川村が都市近郊の観光地として発展をめざしていく「緑と文化の交流レクリエーションゾーン構想」が策定され、清川村の魅力を引き出していくとともに、首都圏の観光拠点としての発展と地域の活性化を目指していく方向性を示しました。
平成6年には平成25年度を目標とする「新清川村総合計画」がスタートしました。 この計画は、本村を取り巻く諸情勢の下、21世紀をその視野の中にとらえながら、時代の進展に対応し、住民の行政需要にこたえる総合的かつ計画的な魅力あふれる地域社会の実現を目指しています。
平成7年10月には、26年の歳月と近代技術の粋を結集し建設が進められてきた宮ヶ瀬ダム本体が完成し、神奈川県民の水瓶として湛水(たんすい)を開始するとともに、ダム湖の名称も「宮ヶ瀬湖」と決定し、新しい観光拠点として大きな期待が寄せられています。
平成9年には、緑の水源を守る清川村下水道施設「清川下水道浄化センター」が完成しました。 村内の汚水は下水処理場に集められた後、微生物の働きを利用した「オキシデーションディッチ方式」と呼ばれる方式を採用し、汚水の原因となる有機物を取り除き、きれいな水にしています。
清川村は、「清川」の名にふさわしい、清らかで豊かな自然を保全しつつ、宅地の確保や工場誘致をはかります。
都市近郊でありながら、大自然に恵まれた土地環境を生かした観光分野にも力を注ぎ、ふれあいセンター「別所の湯」(平成7年完成)や交流促進センター「清流の館」(平成9年完成)、村立金沢キャンプ場(平成9年完成)を整備することで、レクリエーションの場を提供してきました。
平成12年12月には、大勢の村民の皆さんの深い理解と協力により、昭和44年の建設計画発表から31年の歳月を経て、宮ヶ瀬ダムが竣工しました。
平成13年には清川村保健福祉センター「やまびこ館」、平成17年には同「ひまわり館」が完成し、村の保健・介護・福祉事業の基盤として活用しています。※一部wikipedia引用
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