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座間市ってどんな街?
●地理について
市域を南北に縦断するJR東日本相模線の東側に沿って伸びる崖を境に、西部・相模川沿いの沖積低地と、東部の相模野台地(相模原台地)に属する高台に分かれる。相模野台地は過去の相模川の堆積作用によって作られた河岸段丘であるが、当市域内では上段の相模原面が大部分を占め、広大な平坦面が広がる。その中で、相模原市内を水源とする目久尻川とその支流が南流し、細長い谷戸を形成している。キャンプ座間付近から市域中央部で南北に連なる座間丘陵は相模原面よりも古い時代に形成された一段高い堆積面であり、氷河期以来の侵食による開析が進んでいる。座間丘陵の西側には相模原面よりも新しい低位段丘面(中津原面、陽原(みなはら)面)が南北に伸び、これに沿って相模原市から流入する鳩川以西が相模川沿いの沖積低地となり、水田が広がっている。
八王子街道沿いに形成された古くからの集落のうち、座間および入谷(座間入谷)は低位段丘上に、新田宿および四ッ谷は沖積低地内に形成された自然堤防上に分布する。目久尻川沿いの谷戸にも水田が開かれ、谷戸の周辺に栗原地区の旧集落が分布する。広大な相模野台地上は近世以前は「相模野」と呼ばれる原野であり、当市域周辺は「座間野」と呼ばれる近隣農村の入会地であった。江戸時代後期に座間野は相模川沿いの座間、入谷、新田宿、四ッ谷各村の飛び地となり、明治以降は生糸産業の発展に合わせて桑畑が広がるようになった。1930年代に移転・新設された軍事施設のうち、高座海軍工廠の跡地に日産自動車座間工場が誘致されると、これを中心とした工業地区が市域東部に形成された。台地上の桑畑は戦後の生糸産業の衰退とともに野菜の生産に重心が移ったが、1960年代にはベッドタウン化の波が及び、小田急線沿いの区域の宅地化が進行した。1970年代には相鉄線沿いにも波及し、南東部の栗原地区でも宅地化が進行した。この結果1990年代までには、中央部の栗原地区を除き、低位段丘面も含めた台地上のほぼ全域が市街地化されるに至っている。
<河川>
相模川、目久尻川、鳩川
<軍事施設>
市内北西部(座間市座間)に米軍座間キャンプ及び陸上自衛隊施設部隊(東部方面第1施設団第3施設群)が所在し、全体面積2,346,381.52m²(座間市分620,832.22m²、相模原市分1,725,549.30m²)であり市域の約3.5%を占有している。
昨今、在日米軍の再編成の日米最終合意に基き、米陸軍第1軍団司令部(ワシントン州)を改編し、新司令部(陸軍・海軍・空軍・海兵隊の4軍を指揮)を設置。また、2012年度末までに陸上自衛隊中央即応集団司令部が朝霞駐屯地から移転する予定である。
なお、今回の合意にあたり、一部用地の返還(1.1ha)が予定されている。
●沿革について
自治体の沿革
1889年(明治22年)4月1日:高座郡座間入谷村・座間村・栗原村・新田宿村・四ッ谷村の合併により高座郡座間村が誕生する。
1937年(昭和12年)12月20日:町制が施行され高座郡座間町が誕生する。
1941年(昭和16年)4月29日:上溝町ほか6村との合併により高座郡相模原町となる。
1948年(昭和23年)9月1日:高座郡相模原町より旧座間町の区域が分立し、高座郡座間町が再置される。
1971年(昭和46年)11月1日:市制を施行し座間市が誕生する。
年表
1927年(昭和2年)4月1日:小田急電鉄開通、座間駅(現相武台前駅)、6月 新座間駅(現座間駅)が開設される。
1935年(昭和10年)6月23日:相模線入谷駅が開設される。
1937年(昭和12年)9月30日:市ヶ谷より陸軍士官学校移転、開設、通称「相武台」。
1944年(昭和19年):高座海軍工廠開廠(終戦後解体)。
1945年(昭和20年)9月2日:米軍により陸軍士官学校を接収。米軍座間キャンプとなる。
1950年(昭和25年)8月:アメリカ陸軍第8軍司令部が米軍座間キャンプ内に設置される。
1952年(昭和27年):上水道創設決定。
1954年(昭和29年):公民館開設。(旧陸軍士官学校の火災時に出た廃材で建設)※現在は市役所西支所内に移転
1955年(昭和30年):町営水道給水開始。
1959年(昭和34年):座架依橋開通。(当初は交互通行のブレハブ橋)
1963年(昭和38年):座間町(現座間市)消防署開設。(消防本部団結成)
1963年(昭和38年):高座3町清掃センター設置。(所在は海老名市)
1964年(昭和39年):座間電報電話局開局。
1965年(昭和40年):日産自動車座間工場完成。
1965年(昭和40年):座間町(現座間市)内電話自動化。
1966年(昭和41年):座間郵便局(現座間中宿郵便局)が相模台(現相模が丘)に移転開設し集配局となる。
1967年(昭和42年):星谷寺の梵鐘が国の重要文化財に指定される。
1967年(昭和42年):座間町(現座間市)消防本部を町役場内に設置。
1968年(昭和43年):町役場中央庁舎竣工。(現在は解体)
1968年(昭和43年):町内の郵便番号が付与される。(〒228)
1968年(昭和43年):文化福祉会館開設。(現在は解体)
1970年(昭和45年):座間町(現座間市)消防本部庁舎完成。
1970年(昭和45年):相武台前駅橋上駅舎竣工。
1970年(昭和46年):座間バイパス一部開通。
1971年(昭和46年):保健ステーション開設(現在は解体)。
1971年(昭和46年):米軍座間キャンプの自衛隊との共同使用開始。(横浜防衛施設局長と町長との間で13項目の覚書と確認書を締結)
1972年(昭和47年):米軍座間キャンプ一部返還。(富士山公園開園)
1972年(昭和47年):相模台出張所(現、相模が丘コミュニティーセンター)開設。
1973年(昭和48年):東部出張所開設。
1974年(昭和49年):下水道事業開始。
1974年(昭和49年):国道246号バイパス開通。
1975年(昭和50年):県立青少年会館開館。(後に市に移管。現市立青少年開館)
1976年(昭和51年):座間警察署開設。
1976年(昭和51年):市民福祉憲章制定。
1978年(昭和53年):座間駅橋上駅舎竣工。
1978年(昭和53年):公共下水道供用開始。
1978年(昭和53年):座間市立図書館会館(市立公民館講堂を改修利用、現在は移転に伴い解体)。
1979年(昭和54年):座間市消防署東分署開設。
1983年(昭和58年):市立図書館新館開館。
1984年(昭和58年):座間市消防署北分署開設。
1994年(平成6年):スカイアリーナ座間開設(市民体育館)。
1995年(平成7年):日産自動車座間工場閉鎖。(現在は座間事業所とカレスト座間)
1995年(平成7年):市役所移転、ハーモニーホール座間開設(市民文化会館)。
1996年(平成8年):市民健康センター開設(休日急患センター)。
2000年(平成12年):電話番号逼迫に伴い市内の一部の市外局番(0427地域)が042へ3桁化。
2001年(平成13年):サニープレイス座間開館(総合福祉センター、文化福祉会館から移管)
2001年(平成13年):電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。
2010年(平成22年)4月1日:相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。
市内の大字名
元は座間、座間入谷、座間新戸、栗原、四ツ谷、新田宿の6大字を編成していたが、座間および座間入谷の両大字は相互に多数の飛び地を持ち境界が錯綜していた。また、西部の相模川沿いを本来の領域とする四ッ谷、新田宿も東部境界沿いに飛び地を持っていた。そのため、特に相模線以東の区域での市街化の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから、1950年代以降相次いで新しい字・町名が設置されてきた。中でも相模が丘に関しては、当初の字名変更(1959年)で「相模台」として起立したが、相模原市が隣接する区域で住居表示を実施した際に「相模台」という町名を新設した(1969年)ため、座間市側では混乱を避けるため1981年の住居表示施行時に字名を再度変更したものである。
住居表示未実施部
入谷 一丁目 - 五丁目(旧字名:座間入谷、1976年(昭和51年)1月字名及び町名変更)
座間 一丁目・二丁目(旧字名:座間及び座間入谷の一部、1975年(昭和50年)1月町名変更)
相武台 一丁目 - 四丁目(旧字名:座間入谷、座間及び栗原の一部 1960年(昭和35年)7月相武台に字名変更 1974年(昭和49年)1月町名変更)
明王(旧字名:座間入谷、座間、栗原及び緑ケ丘の一部 1970年(昭和45年)11月明王に字名変更)
栗原
四ツ谷
新田宿
座間入谷
住居表示実施部
相模が丘 一丁目 - 六丁目(旧字名:座間及び新田宿の一部 1959年(昭和34年)4月相模台に字名変更 1981年(昭和56年)6月相模が丘に字名変更及び住居表示実施)
東原 一丁目 - 六丁目(旧字名:栗原の一部 1978年(昭和58年)11月東原に字名変更及び住居表示実施)
さがみ野 一丁目 - 三丁目(旧字名:栗原の一部 1985年(昭和60年)10月さがみ野に字名変更及び住居表示実施)
緑ケ丘 一丁目 - 六丁目(旧字名:座間、座間入谷及び栗原の一部 1962年(昭和37年)10月公募により命名、緑ケ丘に字名変更 昭和62年10月住居表示実施)
南栗原 一丁目 - 六丁目(旧字名:栗原の一部 1989年(平成元年)10月南栗原に字名変更及び住居表示実施)
栗原中央一丁目 - 六丁目(旧字名:栗原の一部 1991年(平成3年)10月栗原中央に字名変更及び住居表示実施)
西栗原 一丁目 - 三丁目(旧字名:栗原の一部 1993年(平成5年)11月西栗原に字名変更及び住居表示実施)
立野台 一丁目 - 三丁目(旧字名:座間入谷及び栗原の一部 1959年(昭和34年)9月立野台に字名変更 1993年(平成5年)11月住居表示実施)
小松原 一丁目・二丁目(旧字名:座間入谷及び四ツ谷の一部 1974年(昭和49年)11月小松原に字名変更 1997年(平成9年)10月住居表示実施)
広野台 一丁目・二丁目(旧字名:座間、相武台及び相模台の一部 1974年(昭和49年)11月広野台に字名変更 1999年(平成11年)9月住居表示実施)
ひばりが丘 一丁目 - 五丁目(旧字名:座間入谷、栗原及び小松原の一部 1977年(昭和52年)11月ひばりが丘に字名変更 2002年(平成14年)9月住居表示実施)
●歴史について
昔より八王子街道(平塚宿を起点に田村で中原街道と交差し、厚木、海老名、座間、相模原を経て八王子に通じる)の宿場町として栄えることにより集落が形成され、現代に入り戦前は農村、戦中は陸軍士官学校及び高座海軍工廠の設置により軍都としての色合いを強めた。しかし戦後は米軍の進駐を経て、昭和30年代半ば頃からは大企業の誘致が行われ自動車産業中心とした企業城下町が形成された。更に昭和40年代の急激な人口の増加により農村から工業及び住宅都市へと変貌を遂げ、現在では県下33市町村中4位の人口密度をもつ市町村となる。
しかし、バブル景気崩壊後、市の基幹産業である自動車産業も不景気の煽りで日産自動車工場などが撤退したことから、税収入の低下を招き、市の財政状況が悪化した。現在でも周辺近隣自治体と比較すると財政的には劣っており回復は厳しいものの、人口においては県下でも比較的高い水準で増加しており、隣接する相模原市、大和市などと同様のベッドタウンとして現在に至っている。
県下では数少ない上水道に地下水(市内の8つの水源井)を用いる自治体であり、井戸水の特徴である夏は冷たく冬は暖かい「座間の地下水」は知れ渡るようになってきた。しかしながら近年の人口増加及び地下水資源の減少等により県営水道を約15%含有する状況になっている。
2000年代に入り在日米軍の再編等に伴う米国陸軍第一軍団司令部のキャンプ座間移転問題が浮上し、これに反対する活動を行政でも行っていたが、2008年(平成20年)8月に防衛省との間で「米陸軍第一軍団新司令部のキャンプ座間移転に伴う基地対策に関する確認書」に市長が署名し移転容認へと転じた。※一部wikipedia引用
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