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相模原市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
相模原市(さがみはらし)は、神奈川県北部にある政令指定都市。緑区、中央区、南区の3区で構成される。
2006年3月の合併以前の旧相模原市域は、隣接する町田市との経済的・地理的・文化的関わりが深く、共に業務核都市に一つの都市として指定されていた。近年、東京都心へ旧市域南部の相模大野から30分ほど、旧市域北部の橋本から40分ほどで行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとしての人気が高まり人口が爆発的に伸びている。特に20代、30代、50代周辺の人口が多く、市全体を活気ある雰囲気にしている。
市内には相模原公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然な環境が近いことなどから若年世帯を中心とした人口の流入が続いている。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多く、更に多数の大学を抱える八王子市への交通が便利なため、学生の街としての顔も併せ持つ。また、市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパス(開所時は文部省宇宙科学研究所)があり、日本の宇宙科学の研究拠点として知られる。
また編入した旧津久井郡4町のうち、城山町と津久井町は橋本駅を最寄り駅として利用しており、国道413号(津久井街道)を介して相模原市中心部との結びつきがあるのに対し、相模湖町と藤野町は相模原市中心部よりも、JR中央本線や国道20号(甲州街道)を介して、八王子市との結びつきの方が強い。
地形
相模川左岸の相模原台地上に位置する平坦な東部・旧相模原市域(中央区・南区および緑区東部)と、南の丹沢山地と北の高尾山・陣馬山などの間に広がる山地を相模川などが刻み、河岸段丘上にわずかな平坦面が散在する西部・津久井地域(旧津久井郡、緑区の大半)とに分けることができる。ただし、津久井地域のうち旧城山町東部は地形的に連続する旧相模原市域と合わせて相模原台地の一部として理解するのが適当である。
相模原台地
新昭和橋付近(厚木市上依知)から望む相模原台地
相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)は相模川が作った扇状地が隆起して形成された洪積台地である。西側の相模川に沿って、気候変動や海水面の変化によって形成された河岸段丘が発達している。
大きく3段に分けられる段丘面のうちでは上段(相模原面)が最も広く、旧市域の半分以上を占め、旧城山町東部の大半もこの段丘面上に広がる。緑区川尻(旧城山町)の川尻八幡宮付近の標高約180mを最高点に南東へ向かって徐々に高度を下げ、緑区橋本六丁目の神明大神宮付近で約140m、南区東大沼二丁目の大沼神社付近で約100m、南区相南三丁目の東海大学付属相模高等学校付近で約85mとなり、南の大和市や座間市に続く。段丘面上は平坦ではあるが水に乏しく、利用が進まずに原野が広がっていた。相模原または相模野とは、主にこの原野について呼んだものである。
江戸時代以降に行われた新田開発によって畑と雑木林の広がる景観となった。
日中戦争下、1930年代に新興工業都市の政策により、軍事施設(当市域では主に陸軍)が相次いで進出し、北部では「軍都計画」と呼ばれる大規模な都市計画に基づく土地区画整理事業が当時の内務省神奈川都市計画地方委員会(野坂相如、浅野英ら)によって行われた。1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、戦後しばらく経ってから区画整理事業は再開し、完成した。そして1960年代以降急速な都市化が進行した。
現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、南区麻溝台・新磯野地区には農地が広がっている。なお、旧軍施設の中には戦後米軍に接収されたものも多く、現在も返還されていない区域が旧相模原市域の面積の約5%を占める。
緑区久保沢から下九沢、中央区上溝を経て南区下溝まで上段と中段(田名原面)の境をなす段丘崖は「横山」と呼ばれる。「ハケ」とも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川、姥川、道保川が段丘崖に並行して南東へ流れるが、これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられている。 下段(陽原[みなばら]面)は3段の中では最も面積が狭く、主に中央区田名地区内の一部(陽原・望地・塩田)を占める。
これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、川が南へ向きを変える南区当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せる。田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の小倉橋、大島河原から水郷田名(田名久所[ぐぞ]地区)にかけての区域は大正期から風光明媚な景勝地として知られている。
当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川は多摩丘陵を刻む小河谷である「ヤト」(谷戸)や、鳩川などと同じくハケの湧水を水源としているが、これも元の相模川の流路であったと考えられている。以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川だった。そのために戦後徐々に河川改修が進められて橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化された。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、特に町田市との間でほとんど進まず、相互に「川向こうの飛地」を多く抱えている。
津久井地域
緑区川尻より望む丹沢山地(蛭ヶ岳 - 丹沢山)の山並み
相模川上流に位置する相模湖。1947年に完成し、戦後にできたダム湖としては日本初である。
宮ヶ瀬ダム建設に伴って形成された宮ヶ瀬湖。周囲の景観の調和、歴史的価値などの観点から評価され、「ダム湖百選」に認定されている。
緑区の中・西部で区全体の面積の9割以上を占める津久井地域は、相模原台地の北西端に位置する旧城山町東部を除くと、ほぼ全域を南の丹沢山地や北の秩父山地に連なる山地が占め、両山地の境界をなす相模川と、道志川をはじめとするその支流沿いに河岸段丘が散在するのみの平地の少ない地域である。
道志川の南側、旧津久井町南西部の青根、青野原、鳥屋(とや)地区は、丹沢山地の北部によって占められ、大室山から同山地最高峰の蛭ヶ岳を経て丹沢山に連なる主稜線で南の足柄上郡山北町と境を接する。また、主脈と呼ばれる蛭ヶ岳から焼山へ至る稜線は北西側の道志川流域と南東側の中津川支流の早戸川流域(いずれも相模川水系)を分ける尾根となっている。標高は低いながらも険しい壮年期の山地であり、平坦地は道志川南岸の高位に散在する狭小な河岸段丘と、串川上流にわずかに伸びる谷底平野が分布するのみである。前者の河岸段丘群を貫通する国道413号に沿って青根、青野原の集落が、後者の谷底平野に鳥屋の集落とわずかな耕地が分布する外は山林に覆われている。
深い谷をうがち谷底平野をほとんど持たない道志川の北側では、石老山、石砂山を経て山梨県上野原市と道志村の境をなす尾根筋が大きく道志川の側に偏って伸び、北の相模川の河谷へ向かって徐々に高度を下げる丘陵によって占められる。旧藤野町南部の牧野(まぎの)地区の集落はこの主に丘陵地の緩斜面に散在する。西に隣接する上野原市秋山地区からは秋山川が流入し、日連(ひづれ)大橋付近で相模川に合流する。
一方、相模川の北側では和田峠、陣馬山、景信山、小仏峠、城山(小仏城山)、大垂水峠と連なる尾根筋によって北の東京都八王子市および檜原村と境を接し、西隣の山梨県(上野原市)との境界をなして南流する境川と東側の沢井川のつくる河谷に旧藤野町北部の佐野川、沢井の集落が分布する。
これらの山地の間を東西に貫流するのが相模川である。一般に山梨県内では「桂川」と呼ばれ、神奈川県に入って「相模川」と呼ばれるようになるとされているが、旧相模湖町では北岸の与瀬、小原(おばら)両地区を合わせて「桂北地区」と呼んだり、さらに下流側の千木良、若柳地区間に架かる橋を「桂橋」と呼んでいる例も見られる。上流の上野原市と接する小淵、名倉(旧藤野町)から下流側の中沢、城山、谷ヶ原(旧城山町)にかけて、相模川の両岸には相模原台地と同時期に形成された数段の河岸段丘が発達している。この平坦面を連ねて甲州街道(国道20号)、JR中央本線、中央自動車道が通過し、東京(江戸)と甲信地方を結ぶ重要な交通路となっている。
旧津久井町北東部では相模川南岸に比較的面積の広い段丘面が広がり、この段丘上に位置する中野地区は津久井地域の主邑として行政の中心となっている。焼山から道志川・相模川と串川に挟まれて伸びる尾根筋の末端の城山は相模川を隔てて相模国中央部の広大な平坦地を見下ろす要害の地に位置し、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏によって築城されたことからこの名があるとされている。
段丘上の平坦地に対して相模川の谷底の平坦地(谷底平野)の発達は悪い。この地形を利用して1947年(昭和22年)に相模ダムが、また1965年(昭和40年)には城山ダムが建設され、それぞれのダムによる人造湖として相模湖および津久井湖が形成された。道志川には1955年(昭和30年)に道志ダム(奥相模湖)が建設され、また2000年(平成12年)に完成した中津川の宮ヶ瀬ダムのダム湖(宮ヶ瀬湖)の一部は津久井町にかかっている。これらのダム湖、および川尻地区北部(旧城山町)のヤト(谷戸)の奥に本沢ダムを築いて津久井湖から汲み上げた水を貯めて作られた城山湖との間は導水路で結ばれ、一体的な水資源管理が行われている。
▼沿革
相模原市発足までの沿革
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行により高座郡相原村・麻溝村・新磯村・大沢村・大野村・溝村が誕生する。旧田名村は単独で町村制による田名村となった。相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田の合併により相原村が誕生する。
当麻村、下溝村の合併により麻溝村が誕生する。
新戸村、磯部村の合併により新磯村が誕生する。
大島村、下九沢村、上九沢村の合併により大沢村が誕生する。
上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の合併により大野村が誕生する。
上溝村が溝村と名称変更する。
1926年(大正15年)1月1日-溝村に町制が施行され、上溝町が誕生する。
1941年(昭和16年)4月29日相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村の新設合併により相模原町が誕生する。町役場を淵野辺に置く。人口3万9,718、面積107.99km²。合併当時は「全国一面積の広い町」であった。
1941年(昭和16年)9月1日町役場を上溝(旧上溝町役場)に移転
1948年(昭和23年)9月1日座間町が分立する。面積90.77km²となる。
1954年(昭和29年)4月29日町役場を清兵衛新田(現在地)に移転。
相模原市発足以降の沿革
昭和40年代まで1954年(昭和29年)11月20日市制が施行され、相模原市となる。人口8万0,374(全国で453番目、県下で10番目)。
1955年(昭和30年)7月11日工場誘致条例を制定する(1961年(昭和36年)3月1日廃止)。
1957年(昭和32年)11月24日市立体育館が開設される。
1958年(昭和33年)1月1日消防本部を設置する。
1958年(昭和33年)1月15日市民の歌を制定する。
1958年(昭和33年)8月1日首都圏整備法による市街地開発区域の指定を受ける。
1960年(昭和35年)6月1日人口が10万を超える。
1961年(昭和36年)1月1日市営工業用水道が完成する。
1962年(昭和37年)2月20日交通安全都市宣言を制定する。
1962年(昭和37年)6月14日相模原市開発公社(現:(財)相模原市都市整備公社)が設立される。
1962年(昭和37年)12月13日清掃事業所(現:東清掃事業所)が開設される。
1963年(昭和38年)7月18日消防署に救急車を配備、救急業務を開始する。
1963年(昭和38年)10月18日相模原市農業協同組合が設立される。
1964年(昭和39年)1月30日日本電信電話公社(当時)相模原電報電話局が開設される。
1964年(昭和39年)3月16日相模原郵便局が開設される(市内初の普通郵便局)。
1964年(昭和39年)5月1日住居表示を開始する。
1964年(昭和39年)11月20日市制10周年事業として相模原市史発刊を開始する(1972年(昭和47年)全7巻で完了)。
1965年(昭和40年)3月1日市営火葬場が開設される。
1965年(昭和40年)11月20日市立市民会館(相模原市民会館)が開設される。
1967年(昭和42年)6月15日相模原商工会館が開設される。
1967年(昭和42年)8月28日人口が20万を超える。
1967年(昭和42年)8月公共下水道事業を開始する。
1968年(昭和43年)3月1日市の木「けやき」を制定する。
1968年(昭和43年)5月1日市立青年の家が開設される。
1968年(昭和43年)6月26日第1次相模原市総合計画を策定する。
1968年(昭和43年)7月1日市民プールが開設される。
1969年(昭和44年)7月31日座間小銃射撃場が日本政府に全面返還される。
1969年(昭和44年)8月31日市役所本庁舎(現庁舎)が完成する。
1970年(昭和45年)7月1日給食施設のない小中学校のため、南部学校給食センターが開設される。
1971年(昭和46年)7月5日人口が30万を超える。
1971年(昭和46年)7月26日北里大学病院が開院する。
1972年(昭和47年)2月21日相模大野駅周辺土地区画整理事業が始まる。
1972年(昭和47年)5月米軍戦車搬出阻止運動が起こる(〜11月)。
1972年(昭和47年)7月1日消防本部新庁舎が完成する。
1972年(昭和47年)9月1日市立老人福祉センター「渓松園」が開設される。
1973年(昭和48年)5月1日保存樹林第1号を指定する。
1973年(昭和48年)7月20日相模原メヂカルセンター(急病診療所)が開設される。
1974年(昭和49年)3月第2次相模原市総合計画を策定する。
1974年(昭和49年)4月6日市制施行20周年を記念して、第1回市民桜まつりが開催される(〜7日)。
1974年(昭和49年)11月20日市立図書館が現在地に開設される。
1974年(昭和49年)11月20日市の花「あじさい」、市の鳥「ひばり」を制定する。
1974年(昭和49年)11月30日キャンプ淵野辺が日本政府に全面返還される。
1975年(昭和50年)3月31日市財政白書「こども急増びんぼう白書」を発行する。
1975年(昭和50年)4月1日市立療育センター「陽光園」(心身障害者訓練センター)が開設される。
1976年(昭和51年)6月19日夜間急患診療を開始する。
1977年(昭和52年)6月6日人口が40万を超える。
1977年(昭和52年)11月1日人口が横須賀市を抜き、人口規模で県内第3位になる。
1979年(昭和54年)4月13日いきがい事業団が発足する。
1979年(昭和54年)4月27日県立相模原公園が開設される。
1979年(昭和54年)5月13日市のシンボルカラー「みどり」を制定する。
1979年(昭和54年)7月1日公共下水道処理を開始する。
1979年(昭和54年)11月18日市民憲章を制定する。
1980年(昭和55年)9月27日日本国有鉄道(当時)横浜線の複線化が市内全区間で完成する。
1980年(昭和55年)12月6日南清掃工場が完成する。
1981年(昭和56年)4月1日米陸軍医療センターが日本政府に全面返還される。
1981年(昭和56年)4月10日市立市民福祉会館(相模原市立あじさい会館)が開設される。
1981年(昭和56年)5月1日行政用同報防災無線「ひばり放送」が開始される。
1981年(昭和56年)11月1日市立総合体育館が開設される。
1982年(昭和57年)4月9日相模原市が障害者福祉都市に指定される。
1982年(昭和57年)12月5日買物公園道路「グリーンプラザさがみはら」が完成する。
1983年(昭和58年)8月29日市域南部の行政拠点となる市南合同庁舎が完成する。
1983年(昭和58年)11月18日市立市民健康文化センターが開設される。
1984年(昭和59年)4月1日市みどりのまちづくり基金と緑地保全基金を制定する。
1984年(昭和59年)6月1日長野県に「市民たてしな自然の村」が開村される。
1984年(昭和59年)12月3日核兵器廃絶平和都市を宣言する。
1985年(昭和60年)2月第3次相模原市総合基本計画を策定する。
1985年(昭和60年)9月18日市立けやき会館、市立けやき体育館が開設される。
1985年(昭和60年)10月6日中国・無錫市と友好都市を締結する。
1985年(昭和60年)11月16日国民年金保養センター「さがみの」が開設される。
1985年(昭和60年)11月17日市立相模原麻溝公園が開設、ふれあい動物広場が利用開始される。
1986年(昭和61年)7月1日公文書公開制度が開始される。
1986年(昭和61年)10月18日市立教育会館が開設される。
1987年(昭和62年)1月5日住民登録オンラインが開始される。
1987年(昭和62年)3月市営工業用水道が廃止される。
1987年(昭和62年)4月1日市立ひばり球場、県立相模原球場が開設される。
1987年(昭和62年)8月10日人口が50万を超える(全国で22番目)。
1987年(昭和62年)11月8日友好都市関係として銀河連邦をつくり、サガミハラ共和国が建国する。
1987年(昭和62年)11月15日市立相模川ふれあい科学館が開設される。
1988年(昭和63年)3月13日JR東日本横浜線古淵駅が開業する。
1988年(昭和63年)10月1日複合都市「ロビーシティ相模大野」が発足する。
1988年(昭和63年)11月1日初めての有料市営駐車場、相模大野立体駐車場が完成する。
1989年(平成元年)以降1989年(平成元年)4月1日文部省(当時)宇宙科学研究所が移転する。
1989年(平成元年)4月28日(財)市民文化財団が発足する。
1989年(平成元年)10月26日(財)相模原市体育協会が発足する。
1989年(平成元年)12月1日相模原南メヂカルセンター(急病診療所)がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月8日市立文化会館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月9日市立相模大野図書館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)3月30日京王帝都電鉄(当時)相模原線が、部分開業していた南大沢駅より延伸し、京王相模原線橋本駅が開業する。
1990年(平成2年)5月14日消防指令センターが完成する。
1990年(平成2年)9月25日市内初の百貨店、伊勢丹相模原店が開店する。
1991年(平成3年)1月20日市立淵野辺公園アイススケート場・水泳プール(銀河アリーナ)が開設される。
1991年(平成3年)3月16日JR東日本相模線が電化完成する。
1991年(平成3年)5月31日カナダの旧スカボロ市(現トロント市)と友好都市提携。
1991年(平成3年)9月8日市立北総合体育館が開設される。
1991年(平成3年)12月1日北清掃工場が完成する。
1992年(平成4年)7月4日さがみはら男女平等憲章を制定する。
1992年(平成4年)8月19日(財)みどりの協会が発足する。
1992年(平成4年)8月21日(財)産業振興財団が発足する。
1992年(平成4年)10月3日第9回全国都市緑化神奈川フェアが開催される(グリーンウェーブ・相模原'92)。
1992年(平成4年)10月26日市営斎場が完成する。
1992年(平成4年)11月20日相模原市環境宣言を制定する。
1993年(平成5年)4月5日粗大ごみの戸別収集を開始する。
1993年(平成5年)4月12日市立産業会館が開設される。
1995年(平成7年)11月20日市立博物館が開設される。
1996年(平成8年)4月20日市立相模川自然の村公園が開設される。
1997年(平成9年)5月20日市立総合水泳場(さがみはらグリーンプール)が開設される。
1997年(平成9年)8月1日市公式Webサイトが開設される。
1997年(平成9年)11月1日相模原市民ギャラリーが開設される。
1998年(平成10年)9月12日さがみはらグリーンプールを会場に、かながわ・ゆめ国体夏季大会が開幕する(〜15日)。
1998年(平成10年)11月3日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地を除く)の市外局番が「0427」から「042」に、市内局番が「XX」から「7XX」に変更される。
1999年(平成11年)5月3日市立北市民健康文化センター(さがみはら北の丘センター)が開設される。
1999年(平成11年)7月20日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地)の市外局番が「0462」から「046」に、市内局番が「XX」から「2XX」に変更される。
1999年(平成11年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市及び神奈川県大和市との境界の一部を変更し、市面積が90.41km²に減少する。
2000年(平成12年)4月1日保健所政令市に指定されたことから、相模原市保健所が開設される。
2000年(平成12年)5月29日人口が60万を超える。
2000年(平成12年)7月8日さがみはら男女共同参画都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)10月28日さがみはら健康都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)11月20日市が事務事業に「ISO14001環境マネジメントシステム」を導入、認証される。
2001年(平成13年)4月5日児童数減少に伴う市内初の市立小学校の統廃合を実施する。市立北相武台小学校と市立磯野台小学校とが統合し、市立もえぎ台小学校が開校(校舎は北相武台小学校を使用)。
2001年(平成13年)4月21日市立総合学習センターが開設される。
2001年(平成13年)6月30日小児科医による休日・夜間急病診療が開始される。
2001年(平成13年)7月1日市が外部監査制度を導入する。
2001年(平成13年)9月29日市立杜のホールはしもと・市立橋本図書館が開設される。
2003年(平成15年)4月1日中核市に指定される。
2003年(平成15年)4月1日「相模原メヂカルセンター」及び「相模原南メヂカルセンター」が「相模原メディカルセンター」及び「相模原南メディカルセンター」に改称される。
2003年(平成15年)10月11日青山学院大学相模原キャンパスが淵野辺に開校する。
2003年(平成15年)12月1日市内のバス路線が大幅に再編される。これに伴い、33系統・51バス停留所が廃止、4系統が新設、既存の6系統が大幅増発となる。
2004年(平成16年)2月1日上鶴間地区の一部で住居表示を実施、上鶴間本町が新設される。これにより、米軍基地を除く市内の上段部分の住居表示は全て完了となった。
2004年(平成16年)11月1日小田急線小田急相模原駅北口市街地再開発事業が着工する。
2004年(平成16年)11月20日市制50周年。
2004年(平成16年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が90.40km²に減少する。相模原市民16世帯41人が東京都町田市民となる。
2005年(平成17年)7月13日市内公共施設(60ヶ所)にAED(自動体外式除細動器)を配置する。
2006年(平成18年)1月30日コミュニティバス実証運行を開始する。交通不便地区における高齢者等、移動に制約のある市民の生活交通を確保するため、市が主体となって計画。運行業務は相模神奈交バスに委託し、2年間を期限として実験的に実施。経路は、JR東日本橋本駅南口-北の丘センター-北総合体育館-相模川自然の村までの約7kmで、所要時間は片道約30分。運行本数は、上り下りとも8時台-18時台まで、1時間に1本ずつ運行される。
2006年(平成18年)3月20日津久井郡津久井町、津久井郡相模湖町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が244.04km²となり、面積規模で県内第2位になる。旧津久井町の姉妹都市であるカナダのトレイル市と継続して友好都市を提携する。
2006年(平成18年)4月1日市立環境情報センターが開設される。
2006年(平成18年)4月1日市が設置した文化施設・福祉施設・体育施設に指定管理者制度を本格的に導入する。
2006年(平成18年)5月1日日米安全保障協議委員会で相模総合補給廠の一部返還等が基本合意される。
2006年(平成18年)10月1日市コールセンターが開設される。
2007年(平成19年)3月11日津久井郡藤野町、津久井郡城山町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が328.84km²となる。人口が合併特例の政令指定都市昇格要件70万人を超える。
2007年(平成19年)4月1日政令指定都市移行を視野に入れて市組織に局制が導入される。
2008年(平成20年)4月23日さがみはら新都心整備構想を発表する(相模総合補給廠一部返還後の跡地利用計画)。
2009年(平成21年)10月23日相模原市が政令指定都市に昇格することが閣議決定される。
2009年(平成21年)12月21日区名が正式に決定する(緑区、中央区、南区)。
2010年(平成22年)4月1日政令指定都市に正式に移行(日本国内19番目)。それに伴い、市内全域において郵便番号が「228-08xx」及び「229-xxxx」から「252-0xxx」に変更される。
2010年(平成22年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が328.83km²に減少する。
2011年(平成23年)5月15日区ごとのシンボルカラーおよびシンボルマークが発表される。
▼歴史
相模国の北部に位置し、旧相模原市域は高座郡に属した。津久井地域の大部分は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれていたが(相模川左岸の津久井町三井および城山町北部は高座郡)、江戸時代には同郡から分離して津久井県と称し、1870年(明治3年)に津久井郡と改称された。
なお、この項では2006-2007年の旧津久井郡4町との合併までは主に旧相模原市域について述べる。津久井地域の歴史については津久井郡の項を参照。
先史・古代から中世
相模川沿いの段丘上には古くからの人々の生活の痕跡が認められるが、市域でも後期旧石器時代末の建物跡とされる田名向原遺跡や、縄文時代中期の大規模集落跡である勝坂遺跡が分布する。
文献資料においては、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(『和名抄』)で相模国高座(たかくら)郡に設置されたと記載されている13郷1駅のうち塩田郷(読みはシホタ)が旧市域内に位置していると比定されている。現在、旧市域南西部の田名地区内の集落名「塩田」が、古代の郷名を継承するものであると考えられている。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、市域は武蔵国多摩郡に成立した横山荘を本拠に同国西南部から相模国北部にかけて割拠した同族的武士団である横山党の勢力下にあり、同武士団の中には粟飯原(相原)、小山、矢部、田名など旧市域北部の地名に由来する名字が見られる。また、旧市域南部は高座郡渋谷荘を本拠とする渋谷氏の勢力下にあった。
鎌倉時代後期には、当麻に時衆教団(時宗)の道場(無量光寺)が開かれた。
室町時代には上杉氏、戦国時代には北条氏の支配下であった。
近世
幕藩支配
江戸時代初期の1633年(寛永10年)には旧市域西部の相模川沿いの村が武蔵忍藩の飛地領とされ、残りの村は幕府直轄領(天領)または旗本の支配地とされたが、時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜したものになっていった。旗本領とされた村の多くは2家以上が支配する相給とされ、幕府あるいは藩との相給とされる村もあった。幕末の段階で1藩単独の支配となっていたのは、旧市域では下野烏山藩領の上矢部村、大島村、田名村の3村のみである。また、清兵衛新田が幕府単独の、上九沢村が旗本佐野家のみの支配を受けていた。
1867年(慶応3年)の大政奉還時点での旧市域各村の支配は以下の通りである。
相原村-旗本領(佐野家、藤沢家)
橋本村-旗本領(藤沢家、別所家、石野家、高木家)
小山村-幕府領、烏山藩領
清兵衛新田-幕府領
上矢部村-烏山藩領
矢部新田村-烏山藩領、旗本領(鈴木家)
淵野辺村-幕府領、烏山藩領、旗本領(岡野氏2家)
鵜野森村-幕府領、旗本領(永井家)
上鶴間村-幕府領、旗本領(大岡家)
上九沢村-旗本領(佐野家)
下九沢村-旗本領(佐野家、加藤家)
大島村-烏山藩領
田名村-烏山藩領
上溝村-幕府領、烏山藩領、旗本領(石野家、森川家、戸田家、高木家、佐野家)
下溝村-幕府領、烏山藩領、荻野山中藩領
当麻村-幕府領、旗本領(千葉家、大久保家)
新戸村-幕府領、旗本領(土屋家、岡部家)
磯部村-幕府領、旗本領(町野家、大津家、大久保家)
これらのうち、幕府領および旗本領は、1868年(慶応4=明治元年)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると、その管轄となった。また、1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、烏山藩領は烏山県、荻野山中藩領は荻野山中県の管轄となったが、同年11月の府県再編によって神奈川県に編入された。
新田開発
原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって1843年(天保14年)に着手され、1856年(安政3年)までに49名が入植して200ha余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田、大沼新田、溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。
台地上の開拓は明治以降も進められた。この時期の開拓地は新開と呼ばれ、橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開がこれにあたる。また、戦後も日本国外からの引揚者や帰農者、戦災者などを入植者として受け入れて旧軍用地の麻溝台や新磯野を中心に開拓が行われた。
新田のうち、「清兵衛新田」と「矢部新田」の地名は合併後も大字として残された。「矢部新田」は住居表示の対象区域とならなかった米軍相模総合補給廠内に現存する。「清兵衛新田」は1974年(昭和49年)に最後まで残った区域に住居表示が実施されて消滅するが、新町名である「清新」はこれに由来するものである
藤沢用田バイパスの約1万9500年前の地層から建造物の柱に使われていたと思われる炭化した木片が出土。日本最古のものである。
古代 - 東海道付近まで海が入り込み、相模野台地上に竪穴式住居址や貝塚がある。
天武4年(675年ころ) - 日本書紀に高座郡記される。
奈良時代-平安時代 - 土甘(とかみ)郷、大庭郷、村岡郷が定まる。
長治年間 - 大庭御厨成立。
1325年 - 呑海上人、時宗総本山清浄光寺(遊行寺)を建立。
14世紀 - 太平記第十巻に藤沢の名が記されている。藤沢の由来は不詳。淵沢、富士見沢からの転訛という仮説あり。
慶長6年(1601年) - 徳川家康により東海道の宿場藤沢宿が設けられる。慶長5年以前から、鷹狩りなどを目的として藤沢御殿が設けられていた。
享保13年(1728年) - 相州炮術調練場が置かれる。
1872年4月 - 羽鳥村に私塾読書院(耕余義塾の前身)開設。
1877年(明治10年)7月17日 - エドワード・S・モースが江の島に日本初の臨海研究施設である江ノ島臨海実験所を設置。
日本初の海洋生物学 発祥の地は湘南の江の島。
1878年(明治11年) - 郡区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢におかれる。当市域内に以下の町村が編成される。
高座郡 藤沢宿大久保町、藤沢宿坂戸町、鵠沼村、稲荷村、大庭村、羽鳥村、辻堂村、下土棚村、亀井野村、円行村、石川村、今田村、西俣野村、打戻村、獺郷村、宮原村、用田村、葛原村、菖蒲沢村、長後村、七ツ木村、千束村、遠藤村 鎌倉郡 藤沢宿大鋸町、藤沢宿西富町、柄沢村、弥勒寺村、渡内村、高谷村、小塚村、宮前村、川名村、片瀬村、江の島 1882年(明治15年) - サムエル・コッキングが江の島に植物園を設立する。
1883年(明治16年) - 七ツ木村と千束村が合併して高倉村となる。
1887年(明治20年) - 横浜-国府津間の鉄道(後の東海道本線)が開通し、藤沢停車場が開業。
1888年(明治21年) - 藤沢宿大久保町と藤沢宿坂戸町が合併して藤沢大坂町となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により当市域に以下の町村が発足する。
高座郡 藤沢大坂町 ←藤沢大坂町 鵠沼村 ←鵠沼村 明治村 ←羽鳥村・大庭村・辻堂村・稲荷村 六会村 ←円行村・亀井野村・下土棚村・西俣野村・今田村・石川村 御所見村 ←用田村・葛原村・菖蒲沢村・獺郷村・打戻村・宮原村 長後村・高倉村は、福田村・上和田村・下和田村とともに渋谷村の一部となる。
遠藤村は、堤村・行谷村・下寺尾村・芹沢村とともに小出村の一部となる。
鎌倉郡 藤沢大富町 ←藤沢駅大鋸町・藤沢駅西富町 村岡村 ←弥勒寺村・小塚村・宮前村・高谷村・渡内村・柄沢村・川名村 川口村 ←片瀬村・江の島 1891年(明治24年)10月24日-10月26日 - 明治天皇が、近衛兵秋期演習観戦のため、藤沢町や六会村を視察する。
1897年(明治30年) - 江の島・片瀬間に村営桟橋が完成する。
1902年(明治35年) - 江之島電気鉄道の藤沢-片瀬間(現:江ノ島電鉄)が開通(日本で6番目の電気鉄道)。
1907年(明治40年)9月18日 - 本市が、陸軍第1師団歩兵第49連隊の徴募区となる。
1907年(明治40年)10月1日 - 高座郡藤沢大坂町が鎌倉郡藤沢大富町を編入する。
1908年(明治41年)4月1日 - 藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併して高座郡藤沢町が発足。
1910年(明治43年) - 江之島電気鉄道の藤沢-鎌倉間が全通する。
1916年(大正5年) - 東海道本線辻堂駅開業。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により市域で4000余戸が倒壊する。
1926年 - 横須賀海軍砲術学校辻堂演習場が置かれる。
1929年(昭和4年) - 小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)江ノ島線が開通する。
昭和初年 龍口寺に長野県(信濃国)松代藩の藩邸(通称:養蚕御殿)が移築される。現在は大書院として使われている。
昭和初期の藤沢(1933年7月) 1933年(昭和8年)4月1日 - 川口村が町制を施行し鎌倉郡片瀬町と改称する。
1940年(昭和15年)10月1日 - 藤沢町が市制を施行し相模原市が発足。人口約3万人。
1941年(昭和16年)6月1日 - 村岡村を編入する[1]。
1942年(昭和17年)3月10日 - 六会村を編入する[2]。
1944年(昭和19年)6月1日 - 藤沢海軍航空隊(司令部・通信学校:善行七丁目、藤沢飛行場:本藤沢四丁目、稲荷一丁目)と海軍電測学校(土棚あたり)が開設される。 11月3日 - 渋谷村が町制を施行して渋谷町となる。
1947年(昭和22年)4月1日 - 片瀬町を編入する[3]。
1948年(昭和23年)7月1日 - 市立図書館が開館。
1951年(昭和26年)12月24日 - 御所見村との境界を変更する[4]。
1955年(昭和30年)4月5日 - 小出村大字遠藤、御所見村および渋谷町のうち長後ならびに高倉を編入する[5]。 小出村の残りの地区は茅ヶ崎市へ編入。渋谷町の残りの地区は渋谷村となり、1956年(昭和31年)9月1日に大和町(現:大和市)に編入。
1957年(昭和32年)10月20日 - 綾瀬町との境界を変更する[6]。
1959年(昭和34年)3月5日 - アメリカ合衆国マイアミ・ビーチ市と姉妹都市提携(相模原市議会議決の日)。 これにより、海岸部観光地を東洋のマイアミビーチとして売り出す。
1959年(昭和34年)6月25日 - 在日米海軍辻堂演習場が返還される。
1959年(昭和34年)7月15日 - 横浜市との境界を変更する[7]。
1960年(昭和35年)7月25日 - 綾瀬町との境界を変更する[8]。
1960年(昭和35年)10月 - 小田急線江ノ島線善行駅開業。
1961年(昭和36年)7月29日 - 長野県松本市と姉妹都市提携(松本市から来藤した日を提携日とする)。
1961年(昭和36年)10月25日 - 鎌倉市との境界を変更する[9]。
1963年(昭和38年)1月25日 - 横浜市との境界を変更する[10]。
1963年(昭和38年)6月24日 - 藤沢バイパスが開通する。
1964年(昭和39年) - 東京オリンピックのヨットレースが江の島で開催される。
1966年(昭和41年) - 小田急線江ノ島線湘南台駅開業。
1971年(昭和46年)3月25日 - 横浜市および大和市との境界を変更する[11]。
1971年(昭和46年) - 西部土地区画整理事業が開始される。(現在の湘南ライフタウン・1992年(平成4年)事業完了)
1981年(昭和56年)11月5日 - 中華人民共和国昆明市と友好都市提携(友好都市提携調印の日)。
1987年(昭和62年)12月2日 - カナダ国ウィンザー市と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。
1988年(昭和63年) - 新湘南バイパスが開通する。
1999年(平成11年) - 湘南台駅に、相鉄いずみ野線と横浜市営地下鉄ブルーラインが延伸開業する。
2000年(平成12年) - 市制施行60周年記念として特別刊行物を発行し、市民に配布。荏原製作所による、引地川へのダイオキシン流出が発覚。
2002年(平成14年)11月15日 - 大韓民国保寧市と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。
2005年(平成17年) - 「辻堂神台一丁目地区土地区画整理事業」(関東特殊製鋼跡地、湘南C-X)が開始される(2009年(平成21年)事業完了)。
一部wikipedia引用。※一部相模原市HP引用。
藤沢市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
神奈川県のほぼ中央南に所在し、相模湾に面している。旧東海道より南側は湘南砂丘地帯と呼ばれる海岸平野で、北側は相模野台地及び高座丘陵となっているが境川および引地川からの起伏は大きくない。南東部には片瀬山と呼ばれる三浦丘陵の西端部となり、その一部は孤立して江の島となる。江の島は市の最南部。
<河川>
柏尾川、境川、引地川、目久尻川、小出川
しかし、藤沢がとくに植物の「ふじ」に関係が深いア.とは考えられませんし、イ.の人名と地名との関係については、むしろ地名が先で、人名が後だとする見方が強く、従って、淵沢(ふちさわ)が藤沢(ふじさわ)に転化したとする説ウ.が最も妥当と考えられています。
▼歴史
藤沢用田バイパスの約1万9500年前の地層から建造物の柱に使われていたと思われる炭化した木片が出土。日本最古のものである。
古代 - 東海道付近まで海が入り込み、相模野台地上に竪穴式住居址や貝塚がある。
天武4年(675年ころ) - 日本書紀に高座郡記される。
奈良時代-平安時代 - 土甘(とかみ)郷、大庭郷、村岡郷が定まる。
長治年間 - 大庭御厨成立。
1325年 - 呑海上人、時宗総本山清浄光寺(遊行寺)を建立。
14世紀 - 太平記第十巻に藤沢の名が記されている。藤沢の由来は不詳。淵沢、富士見沢からの転訛という仮説あり。
慶長6年(1601年) - 徳川家康により東海道の宿場藤沢宿が設けられる。慶長5年以前から、鷹狩りなどを目的として藤沢御殿が設けられていた。
享保13年(1728年) - 相州炮術調練場が置かれる。
1872年4月 - 羽鳥村に私塾読書院(耕余義塾の前身)開設。
1877年(明治10年)7月17日 - エドワード・S・モースが江の島に日本初の臨海研究施設である江ノ島臨海実験所を設置。
日本初の海洋生物学 発祥の地は湘南の江の島。
1878年(明治11年) - 郡区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢におかれる。当市域内に以下の町村が編成される。
高座郡 藤沢宿大久保町、藤沢宿坂戸町、鵠沼村、稲荷村、大庭村、羽鳥村、辻堂村、下土棚村、亀井野村、円行村、石川村、今田村、西俣野村、打戻村、獺郷村、宮原村、用田村、葛原村、菖蒲沢村、長後村、七ツ木村、千束村、遠藤村 鎌倉郡 藤沢宿大鋸町、藤沢宿西富町、柄沢村、弥勒寺村、渡内村、高谷村、小塚村、宮前村、川名村、片瀬村、江の島 1882年(明治15年) - サムエル・コッキングが江の島に植物園を設立する。
1883年(明治16年) - 七ツ木村と千束村が合併して高倉村となる。
1887年(明治20年) - 横浜-国府津間の鉄道(後の東海道本線)が開通し、藤沢停車場が開業。
1888年(明治21年) - 藤沢宿大久保町と藤沢宿坂戸町が合併して藤沢大坂町となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により当市域に以下の町村が発足する。
高座郡 藤沢大坂町 ←藤沢大坂町 鵠沼村 ←鵠沼村 明治村 ←羽鳥村・大庭村・辻堂村・稲荷村 六会村 ←円行村・亀井野村・下土棚村・西俣野村・今田村・石川村 御所見村 ←用田村・葛原村・菖蒲沢村・獺郷村・打戻村・宮原村 長後村・高倉村は、福田村・上和田村・下和田村とともに渋谷村の一部となる。
遠藤村は、堤村・行谷村・下寺尾村・芹沢村とともに小出村の一部となる。
鎌倉郡 藤沢大富町 ←藤沢駅大鋸町・藤沢駅西富町 村岡村 ←弥勒寺村・小塚村・宮前村・高谷村・渡内村・柄沢村・川名村 川口村 ←片瀬村・江の島 1891年(明治24年)10月24日-10月26日 - 明治天皇が、近衛兵秋期演習観戦のため、藤沢町や六会村を視察する。
1897年(明治30年) - 江の島・片瀬間に村営桟橋が完成する。
1902年(明治35年) - 江之島電気鉄道の藤沢-片瀬間(現:江ノ島電鉄)が開通(日本で6番目の電気鉄道)。
1907年(明治40年)9月18日 - 本市が、陸軍第1師団歩兵第49連隊の徴募区となる。
1907年(明治40年)10月1日 - 高座郡藤沢大坂町が鎌倉郡藤沢大富町を編入する。
1908年(明治41年)4月1日 - 藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併して高座郡藤沢町が発足。
1910年(明治43年) - 江之島電気鉄道の藤沢-鎌倉間が全通する。
1916年(大正5年) - 東海道本線辻堂駅開業。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により市域で4000余戸が倒壊する。
1926年 - 横須賀海軍砲術学校辻堂演習場が置かれる。
1929年(昭和4年) - 小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)江ノ島線が開通する。
昭和初年 龍口寺に長野県(信濃国)松代藩の藩邸(通称:養蚕御殿)が移築される。現在は大書院として使われている。
昭和初期の藤沢(1933年7月) 1933年(昭和8年)4月1日 - 川口村が町制を施行し鎌倉郡片瀬町と改称する。
ウィキソースに藤澤市設置の内務省告示文があります。
1940年(昭和15年)10月1日 - 藤沢町が市制を施行し藤沢市が発足。人口約3万人。
1941年(昭和16年)6月1日 - 村岡村を編入する[1]。
1942年(昭和17年)3月10日 - 六会村を編入する[2]。
1944年(昭和19年)6月1日 - 藤沢海軍航空隊(司令部・通信学校:善行七丁目、藤沢飛行場:本藤沢四丁目、稲荷一丁目)と海軍電測学校(土棚あたり)が開設される。 11月3日 - 渋谷村が町制を施行して渋谷町となる。
1947年(昭和22年)4月1日 - 片瀬町を編入する[3]。
1948年(昭和23年)7月1日 - 市立図書館が開館。
1951年(昭和26年)12月24日 - 御所見村との境界を変更する[4]。
1955年(昭和30年)4月5日 - 小出村大字遠藤、御所見村および渋谷町のうち長後ならびに高倉を編入する[5]。 小出村の残りの地区は茅ヶ崎市へ編入。渋谷町の残りの地区は渋谷村となり、1956年(昭和31年)9月1日に大和町(現:大和市)に編入。
1957年(昭和32年)10月20日 - 綾瀬町との境界を変更する[6]。
1959年(昭和34年)3月5日 - アメリカ合衆国マイアミ・ビーチ市と姉妹都市提携(藤沢市議会議決の日)。 これにより、海岸部観光地を東洋のマイアミビーチとして売り出す。
1959年(昭和34年)6月25日 - 在日米海軍辻堂演習場が返還される。
1959年(昭和34年)7月15日 - 横浜市との境界を変更する[7]。
1960年(昭和35年)7月25日 - 綾瀬町との境界を変更する[8]。
1960年(昭和35年)10月 - 小田急線江ノ島線善行駅開業。
1961年(昭和36年)7月29日 - 長野県松本市と姉妹都市提携(松本市から来藤した日を提携日とする)。
1961年(昭和36年)10月25日 - 鎌倉市との境界を変更する[9]。
1963年(昭和38年)1月25日 - 横浜市との境界を変更する[10]。
1963年(昭和38年)6月24日 - 藤沢バイパスが開通する。
1964年(昭和39年) - 東京オリンピックのヨットレースが江の島で開催される。
1966年(昭和41年) - 小田急線江ノ島線湘南台駅開業。
1971年(昭和46年)3月25日 - 横浜市および大和市との境界を変更する[11]。
1971年(昭和46年) - 西部土地区画整理事業が開始される。(現在の湘南ライフタウン・1992年(平成4年)事業完了)
1981年(昭和56年)11月5日 - 中華人民共和国昆明市と友好都市提携(友好都市提携調印の日)。
1987年(昭和62年)12月2日 - カナダ国ウィンザー市と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。
1988年(昭和63年) - 新湘南バイパスが開通する。
1999年(平成11年) - 湘南台駅に、相鉄いずみ野線と横浜市営地下鉄ブルーラインが延伸開業する。
2000年(平成12年) - 市制施行60周年記念として特別刊行物を発行し、市民に配布。荏原製作所による、引地川へのダイオキシン流出が発覚。
2002年(平成14年)11月15日 - 大韓民国保寧市と姉妹都市提携(姉妹都市提携調印の日)。
2005年(平成17年) - 「辻堂神台一丁目地区土地区画整理事業」(関東特殊製鋼跡地、湘南C-X)が開始される(2009年(平成21年)事業完了)。
一部wikipedia引用。※一部藤沢市HP引用。
鎌倉市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県、三浦半島西側の付け根に位置する市。
鎌倉市は横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している。三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては幕府が置かれ政権の要の地であった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。
江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。
明治初期、現鎌倉市域を含む鎌倉郡を管轄する郡役所は戸塚(現横浜市戸塚区)に置かれた。明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。ゆえに中世以来の建造物はほとんど存在せず、文化遺産として価値の高い中世都市の遺構の多い地域といえる。
1889年(明治22年)-それまで30あまりあった村が、東鎌倉村・西鎌倉村・腰越津村・深沢村・小坂村・玉縄村にまとまる。
1894年(明治27年)-東鎌倉村と西鎌倉村が合併し、鎌倉町になる。
1931年(昭和6年)-腰越津村が腰越町になる。
1933年(昭和8年)2月11日-小坂村が大船町になる。4月2日-大船町が玉縄村を編入。
1939年(昭和14年)11月3日-鎌倉町と腰越町が合併し、市制施行。鎌倉市となる。
1948年(昭和23年)1月1日-深沢村を編入。6月1日-大船町を編入。
1961年(昭和36年)10月25日-藤沢市との境界を変更する。
1972年(昭和47年)5月1日-逗子市との境界を変更する。
地形が天然の要害でもあり、古代、鎌倉郡の郡衙が設置された場所であり、また豪族の鎌倉氏の本拠でもあった。
平忠常の乱の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の功により、その子源頼義の頃に畿内の河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備される。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となる。
1225年には北条泰時が執権に就き、連署や評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉から宇都宮辻子に移し、1232年には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとした。1333年に後醍醐天皇の討幕に呼応した上野国(群馬県)の河内源氏義家流・新田義貞は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した桓武平氏流北条氏の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である東勝寺で北条氏一族を滅亡させた(東勝寺合戦)。1953年(昭和28年)に鈴木尚の調査では大量の刀創などのある人骨が発掘されている。
京都で後醍醐天皇の建武の新政がはじまると義貞は召還され、京都の六波羅探題を滅亡させるなど討幕に効のあった一族の足利尊氏の弟である足利直義や一門の細川氏などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。北条氏一族の残党が中先代の乱を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け九州落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の足利基氏が鎌倉へ派遣されて鎌倉府を設置し、以後鎌倉公方として関東統治を行う。
室町時代には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する関東管領とも対立した事などにより上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦などの騒乱が起る。1455年には享徳の乱で足利成氏が下総国古河へ移り古河公方を成立させた事により鎌倉は衰退する。
戦国時代には小田原の北条早雲が進出、玉縄城を築いて東相模の拠点とした。北条氏綱の治世時代に安房の里見氏との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。上杉謙信・武田信玄・里見氏らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入った。
近世には江戸が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興がはじまる。江戸の庶民によって、大山の阿夫利神社、江の島の江島神社などへの参拝を目的とした講が結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。
1889年(明治22年)に東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で横須賀線が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。
その少し前1883年(明治16年)に、「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した長与専斎が、神奈川県・鎌倉の海を、地形的な特徴から「海水浴場として最適」と紹介した。当時は海水浴が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであったが、今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされ、由比ヶ浜、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に設営され、湘南の一部として一般に認識されている。
1923年(大正12年)9月1日におきた関東大震災では鎌倉も大きな被害がもたらされた。
昭和に入ると、久米正雄など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「鎌倉文士」という言葉が生みだされた。1936年(昭和11年)、松竹が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。
1928年(昭和3年)の鎌倉山の分譲を嚆矢に、1930年(昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった鶴岡八幡宮裏の「御谷」開発中止を求める、作家大佛次郎を中心とした市民運動は、古都保存法制定の契機となり、異論はあるが日本におけるナショナル・トラスト運動の嚆矢ともいわれている。
大和市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
<地勢・位置>
神奈川県のほぼ中央部に位置し、東京都心から40km圏内にある。東は横浜市、西は座間市、海老名市、綾瀬市に、南は藤沢市、北は、相模原市、東京都町田市にそれぞれ隣接している。人口は約23万人。特例市に指定されている。かつて隣接する座間市、海老名市、綾瀬市との間に県央政令指定都市構想があった。
面積は27.06km²、広袤は東西3.22Km、南北9.79Kmと南北に細長い。市域のほとんどが相模野台地(相模原台地)上にあり、台地上は北の相模原市との境界付近で標高82m、南の藤沢市との境界付近で標高44m、北から南へ緩やかに傾斜し、平坦で丘陵起伏がほとんど無い都市である。この台地面を東西の河川が刻み、急崖を持った細長い河谷が南北に延びる(後述)。市内最高点は下鶴間・浅間神社跡の標高90m、最低点は福田・江の窪の30mである。
鉄道は中央部を東西に相鉄本線、南北に小田急江ノ島線が走る他、北部に東急田園都市線が乗入れ、狭い市域に8駅がある。この為、市内のどこからも最寄り駅まで約15分前後で行け、更に新宿・渋谷・横浜にそれぞれ1時間以内で移動できることから利便性は比較的良い。また、道路網も国道246号や旧・国道246号、国道467号、旧・国道16号、主要地方道丸子中山茅ヶ崎線などが東西南北に走るほか、東名高速道路の横浜町田インターチェンジまで約10分程度の距離となっているなど利便性は比較的良い。
郵便番号は242-XXXX。
NTT東日本の加入電話に使用している市外局番帯は厚木MA管内で、かつては0462(XX)を使用していたが、加入者増加などに対応するため1999年7月20日午前2時に一斉変更され、046(2xx)となった[1]。
<河川>
市域の東側を境川が南流し、町田市および横浜市との境界をなす。下鶴間の鶴瀬橋のやや上流にある3市の境界線の交点より上流側では相模国と武蔵国の、下流側では相模国の高座郡と鎌倉郡の境界となっていたことからこの名がある。境川には下鶴間の目黒橋付近で目黒川が合流する。この川は本来、相模原市内に水源を持つ深堀川の下流部であるが、同市上鶴間で境川に短絡する暗渠の排水路が造られたために、現在では深堀川の水は流れていない。 横浜市瀬谷区側に被害が集中することが多く、毎年大雨・台風が襲来し境川があふれると、ひどい時には床下浸水におよぶ事がしばしばある。特に1995年(平成7年)[要出典]の時は被害が甚大となり、復旧にあたり鹿島橋を架け替えることとなった。
引地川は、市内の上草柳(かみそうやぎ)を水源とし、市域西部の台地面を侵食しながら南へ流れている。
大和市は、神奈川県のほぼ中央に位置し、横浜、相模原、藤沢、海老名、座間、綾瀬、東京都町田の各市に隣接する、人口約23万人の自治体です。市域は南北に細長く、丘陵起伏がほとんどありません。
面積は約27平方キロメートルと小さな市ですが、都心から40km圏内3つの鉄道が東西南北に走り、東京へ1時間弱、横浜へは20分で行くことが出来ます。市内には8つの駅があり、市域のほとんどが駅まで15分以内の徒歩圏内にあります。
また、道路網も国道16号線、246号線及び467号線のほか県道4線が縦横に走り、東名高速道路横浜町田インターチェンジにも近いなど、交通の利便性に恵まれています。
大和市の市章は、躍進大和市の「大」の文字の全体を円形にかたどり、鳥が翼を広げたような形は大和市将来の円満な飛躍発展を表徴したものです。昭和28年11月3日に制定されました。
シンボルカラーは若みどりです。市制施行30周年を記念し、平成元年2月1日に制定。若葉、新緑の色「若みどり」は、将来に向けて躍進する青年都市大和市を象徴する色として選ばれました。
健康都市シンボルマークは、人と、人を取り巻く環境の両方を改善していくという「健康都市」を目指していくにあたり、市民のみなさんと行政が一丸となって健康都市を推進するため、その取り組みの象徴として平成20年10月1日に制定しました。虹は、市民一人ひとりの輝く個性を、太陽は、個々の力が集まる強さとあたたかさを表し、健康と元気に満ちあふれる大和市を象徴しています。
原始・古代(1192年以前)
大和市内の人類の足跡は、今から約23,000年前の旧石器時代の遺跡で確認されている。市域を流れる引地川、境川に沿った台地には遺跡が点在し、質の高い石器類が発掘されている。数多くの石器類からは当時の人々が狩猟中心の生活をしていたことがわかる。約12,000年前ごろの縄文時代には、気候が温暖になってきた。動植物も豊かになり、人々のくらしも安定し、土器を使い、竪穴式住居にすむようになる。市内には縄文時代の草創期の遺跡があり、日本最古レベルの土器片が出土している。
市内最古の神社である深見神社は、927年の延喜式にその存在が記録されている。創建は更に時代を遡るはずである。現在の場所に移ったのは焼失(明治期)後再建された戦中の事で、以前はやや西にあったという。神社の表参道であった大門は横浜市瀬谷区側にあった。大門の地名はすでに失われたが、大門川、大門小学校(いずれも瀬谷区)に名残がある。
中世(1590年頃まで)
鎌倉幕府が開かれると、市域は高座郡渋谷庄と呼ばれ渋谷重国が、室町時代には鶴間郷と呼ばれ足利氏が支配した。その後、戦国時代には後北条氏が相模の国を支配、市域はその家臣たちによって治められるようになった。そのころ、保田筑後の守など9人(「福田九人衆」と呼ばれ、現在も福田の開発伝承として伝えられており、九人の姓名は、保田筑後守、田辺因幡守、広村刑部介、斉藤民部、駒井文太夫、広瀬藤八、市川源兵衛、山下半哉、小林大玄)が今の福田地域に土着して開墾している。古道として知られる滝山街道(現在の国道467号線)は鎌倉時代の重要な道のひとつである。保田、広瀬、山下などの名字は現在も多く福田地区、渋谷地区に見られる。
室町期には深見城が築かれた。城主として山田伊賀守経光の名が知られる。深見城の掘りとして機能した境川には、経光にちなんだ山田橋が現存する。深見城は大和市域に存在するが、馬場屋敷、中屋敷、牢場坂などの地名は境川の対岸横浜市瀬谷区にある。大和市域は乾燥した台地上であり、水の便の良い横浜市側の低地に多くの人々が居住していたのであろう。
近世(1868年頃まで)
1590年の後北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入国した。検地が実施されたり、宗門人別帳の作成などが行われ、近世農村としての基礎固めが行われるようになった。江戸時代後期の市域の戸数は646戸だったと記されている。また、現在市役所のある下鶴間は、旅篭や茶店などがあり、大山参りに使われた矢倉沢往還の宿駅(下鶴間宿)であったと渡辺崋山の「游相(ゆうそう)日記」に記されている。幕藩体制時代、市域は初期を除き大部分が旗本領であったが、5代将軍徳川綱吉の時代、常陸・鹿島にも領地をもつ坂本重冶は、次第に加増をうけ、寺社奉行を歴任し、1万石余の大名になった深見藩:家中)が、逆鱗にふれ、元の旗本になり子孫は深見を領した。よって陣屋も建てられなかった。深見台にある仏導寺には坂本家の慶長時代の墓所があり、坂本重安屋敷跡もある。近くのK氏宅には坂本家累代の位牌を預かっている。深見に明治以前から続く姓として中丸、富沢などがある。上和田地区の領主は石川氏、福田地区の領主は中根氏である。
近・現代(1868年以降)
町村制の施行
1889年町村制が施行され、市域には鶴見村、渋谷村の2つの村ができた。その後、鶴見村では分村問題が発生し、それを収拾するために1891年9月25日、村名を大和村と改称し、ここに「大和」の名称が誕生した。
現在の市名の由来
「鶴見村」は下鶴間村、深見村、上草柳(かみそうやぎ)村、下草柳(しもそうやぎ)村、上和田村の一部が合併してできた村。下鶴間村の“鶴”と深見村の“見”をとって名づけられたとされている。同じ神奈川県にある横浜市鶴見区とは全く関係がない。その後分村問題などの末、当時の八須賀村長の提言を元に、皆が「大いなる和」で協力していこうという意味から、1891年に「大和村」に改称したのである(明治以降誕生した大和村・大和町はほぼこれと似たような意味から付けられている)。 本来の旧国名の領域ではない地域に旧国名を名乗る市は、他には高知県安芸市や東京都東大和市がある。
二つの鉄道開通から終戦まで
1926年には、現在の相模鉄道(当時は神中鉄道)が開通。市内に大和駅が設置。 (1943年に相模大塚駅が現在の位置へ移転)。1929年には小田急江ノ島線が開通。市内に中央林間都市駅(現中央林間駅)、南林間都市駅(現南林間駅)、西大和駅(現大和駅)、高座渋谷駅が開設された。
1941年には現在の厚木基地である相模野海軍航空隊ができた。1945年に終戦を迎え、海軍航空隊は米国海軍厚木航空基地となった。その後はジェット機の訓練場所として米軍・自衛隊双方が飛行訓練を行っており、酷い場合には朝8時頃から午後10時頃まで飛行訓練を行っている為、騒音がひっきりなしにある。特に夜間離着陸訓練(NLP)を行っている。2007年12月に国を被告とした第四次爆音訴訟が提訴され、現在係争中である。また、離着陸訓練が行われる時期になると、騒音に関する抗議の電話が相当件数、市の渉外室基地対策課に寄せられる[2]。
相次ぐ軍事施設の進出を背景に、1930年代末から上溝町、座間町、大野村など高座郡北部の町村を合併して一大都市を建設する構想が立てられ、大和村もその対象として合併協議に加わった。しかし、期限とされた時期までに村内の意見を集約することができず、大和村は協議から離脱し、残った2町6村で合併が行われて1941年4月29日に相模原町が発足した(「相模原市#相模原町の発足」を参照)。
大和村は1943年11月3日に単独で町制を施行して大和町となり、渋谷村も1944年11月3日に渋谷町となった。
市制施行から東急田園都市線の開通へ
終戦時点で現市域には大和町および渋谷町と2つの町があったが、1955年に渋谷町の南半にあたる長後、高倉などが藤沢市に編入されることが決まった。その結果、渋谷町は分割され、同年4月5日に旧町の北半部で改めて渋谷村が設置された。これは隣接する大和町または綾瀬町との合併を前提とするものとされ、1956年9月1日に大和町が渋谷村を編入合併し、現在の大和市の形が出来上がった。さらに1959年2月1日に、大和町が市制を施行して「大和市」となった。その後、つぎつぎと区画整理事業などが実施されて宅地化が進行する一方、1976年には東急田園都市線がつきみ野駅まで開通、1984年には中央林間駅まで開通して都心への新たな直結ルートが完成した。大和駅周辺では相模鉄道の延べ1kmの地下化がおよそ10年余りを要して1997年に完成し、1年遅れて小田急線の大和駅も新装となってロマンスカーえのしま号、ホームウェイが停車するようになった。
特例市制定
「特例市」制度は、地方分権を推進することを目的として、2000年4月に地方自治法改正により創設された新たな都市制度である。2000年11月1日、大和市は特例市に移行した。移行にさいし、「地域のことは地域で考え、地域で決める。そして自己責任を持つ。市民と行政が一体となり、そんなまちづくりを目指していく。」としている。なお、特例市の指定に関しては第13代市長であった土屋侯保が陣頭指揮を執り、制度指定のさきがけとなれるよう全庁舎内で取り組んでいた経緯がある。
横浜市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
横浜市(よこはまし)は、関東地方南部、神奈川県の東部に位置する都市で、同県の県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18の行政区を持つ。日本の市町村で人口が最も多い。また、神奈川県内の市町村で面積が最も広い。旧武蔵国と旧相模国の一部
市域は神奈川県の東部にあたり、東経139度43分31秒(鶴見区扇島)から139度27分52秒(瀬谷区目黒町)、北緯35度35分33秒(青葉区美しが丘西)から35度18分44秒(金沢区六浦南)に位置する[10]。東は東京湾に面し、北は川崎市、西は大和市・藤沢市・東京都町田市、南は鎌倉市・逗子市・横須賀市に接する。市域の面積は神奈川県の約18%を占め、県内の市町村で最も広い。
地形
市域の地形は、丘陵地、台地・段丘、低地、埋立地に分けられる。
丘陵地は、市域中央部よりやや西よりに分布し、市域を南北に縦断する。この丘陵地は保土ケ谷区・旭区などを流れる帷子川付近を境に、北側と南側で性質を異にする。北側の丘陵地は、多摩丘陵の南端に位置し、標高は60mから100mで北に向かって高くなっている。南側の丘陵地は、三浦半島に続く三浦丘陵の北端部を占め、標高は80mから160mで南に向かって高くなっている。南側の丘陵地の方が起伏も激しく、標高も高い。鎌倉市に山頂部を置く大平山をはじめとする通称「鎌倉アルプス」に続く峠部分が市内最高点(栄区上郷町、標高159.4m)であり、市内最高峰の大丸山(金沢区釜利谷町、標高156.8m)や円海山(磯子区峰町、標高153.3m)もこの南側の丘陵地に位置する。
台地・段丘は、丘陵地の東西にある。東側の台地は鶴見区の地名を取って下末吉台地と呼ばれ、標高は40mから60mで鶴見川付近まで続く。西側の台地は、相模野台地の東端にあたり、標高は30mから70mで南に向かって低くなっている。本牧付近で台地が海に突き出し、その南側は根岸湾と呼ばれる。横浜駅周辺も幕末まで袖ヶ浦と呼ばれる入り江だった。
低地には、丘陵地や台地を刻む河川の谷底低地と沿岸部の海岸低地とがある。谷底低地は鶴見川に沿って広がり、平坦な三角州性低地を形成する。また、海岸部には埋立地が造成され、海岸線はほとんどが人工化されている。金沢区の小さな入り江平潟湾は、鎌倉幕府が江戸湾側の海の玄関口とした天然の良港であった。島としては金沢区の野島(扇島・八景島は人工島)があり、野島海岸が横浜で唯一の自然海浜となった。
<河川>
鶴見川、帷子川、鳥山川、入江川、早渕川、柏尾川、境川、宇田川、砂田川、中堀川、和泉川、大岡川、堀割川、いたち川、侍従川、富岡川、大川、今井川、滝の川
<山>
南部の港南区・磯子区・栄区・金沢区境付近が最も高く、大丸山(標高156m)、円海山(標高153m)などがある。
▼沿革
1889年(明治22年)4月1日
市制施行
1901年(明治34年)4月1日
第1次市域拡張(橘樹郡神奈川町、久良岐郡戸太町・中村・本牧村・根岸村を編入)
1911年(明治44年)4月1日
第2次市域拡張(橘樹郡子安村の一部(大字子安)、久良岐郡屏風浦村の一部(大字磯子、滝頭、岡)・同郡大岡川村の一部(大字堀ノ内、井土ケ谷、蒔田、弘明寺、下大岡)を編入)
1927年(昭和2年)4月1日
第3次市域拡張(橘樹郡鶴見町・保土ケ谷町・旭村・大綱村・城郷村、久良岐郡屏風浦村・大岡川村・日下村、都筑郡西谷村を編入)
同年10月1日
区制施行。鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区の5区を置く。
1936年(昭和11年)10月1日
第4次市域拡張(久良岐郡金沢町・六浦荘村を磯子区に、鎌倉郡永野村を中区に編入)
1937年(昭和12年)4月1日
第5次市域拡張(橘樹郡日吉村の一部(大字駒林、駒ケ橋、箕輪と矢上、南加瀬の各一部)を神奈川区に編入)
1939年(昭和14年)4月1日
第6次市域拡張(都筑郡都岡村・二俣川村を保土ケ谷区に編入。同郡川和町・新治村・田奈村・中里村・山内村・川和町・中川村・新田村を編入し、港北区を新設。鎌倉郡戸塚町・中川村・川上村・豊田村・本郷村・中和田村・瀬谷村・大正村を編入し、戸塚区を新設)。鎌倉郡から戸塚区、都筑郡から港北区を新設。
1943年(昭和18年)12月1日
中区から南区を分区新設。神奈川区の一部を中区に編入。
1944年(昭和19年)4月1日
中区から西区を分区新設。
1948年(昭和23年)5月15日
磯子区から金沢区を分区新設。
1956年(昭和31年)9月1日
政令指定都市に指定。
1969年(昭和44年)10月1日
南区を(新)南区と港南区に分割。戸塚区を(新)戸塚区と瀬谷区に分割。保土ケ谷区を(新)保土ケ谷区と旭区に分割。港北区を(新)港北区と緑区に分割。港北区の一部(上菅田町、新井町)を(新)保土ケ谷区に編入。
1986年(昭和61年)11月3日
戸塚区を(新)戸塚区と栄区と泉区に分割。
1994年(平成6年)11月6日
港北区と緑区を再編し、港北区、緑区、青葉区、都筑区を新設。
▼歴史
現市域各地の前史
市域には、およそ25か所の後期旧石器時代の遺跡が発見されている。縄文時代の遺跡は、都筑区の花見山遺跡など数多く見られる。中期までの弥生時代遺跡は少なく、中期後半以降は、都筑区の大塚・歳勝土遺跡など、方形周溝墓を伴う環濠集落が現れる。古墳の出現は4世紀の中期以降とされ、青葉区の稲荷前古墳群などはこの時代の遺跡である。
市域の地名に関する文献上の初出は、『日本書紀』の安閑天皇元年(534年)の条とされる。武蔵国に住む豪族が、橘花(たちばな。橘樹郡)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐(くらき)郡)ほか4か所を屯倉として献上したと記される。7世紀後半までに市域には、武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。都筑区の長者原遺跡(ちょうじゃっぱらいせき)は、8世紀に成立した都筑郡衙跡とされる。なお、都筑郡の名が見える最古の記録は、『万葉集』である。927年(延長5年)には、都筑郡の杉山神社が、式内社とされた。この杉山神社には論社がいくつかあり、位置は確定されていない。
市域は奈良時代以降、人口も増えて生産力を高めた。平安時代には各所の開発も進み、坂東八平氏や武蔵七党など、関東武士の力が蓄えられた。市域には、平子氏、榛谷(はんがや、はりがや)氏、稲毛氏、綴党(つづきとう)などの武士団が勢力を張った。今に残る弘明寺、宝生寺など、平安時代以前の建立とされる寺院は、これら有力武士団の支援を受けていたものと考えられる。
称名寺庭園(金沢区)
市域は、鎌倉に鎌倉幕府が開設された12世紀から本格的に開発が始まった。鶴見川や柏尾川などの河川流域では農業が発達し、13世紀前半には、現在の新横浜周辺地域にあたる小机郷鳥山(港北区小机町・鳥山町)から、多摩川・鶴見川周辺地域が、幕府によって大規模に開発された。また、東京湾に面する六浦湊(金沢区六浦)が鎌倉の玄関口として文化・交易・産業の中心地となり、中国大陸(南宋)との貿易(日宋貿易)や内湾の交易によって栄え、武士や商人・職人・宗教者などが多く集まりにぎわいをみせ、東海道に接して栄えた神奈川湊(神奈川区神奈川)とともに漁業と海運業の発達へと繋がっていった。
横浜の名の初出は、室町時代中期の1442年(嘉吉2年)の文献である。この年、平子氏の家臣と思われる市川季氏と比留間範数の両名が、石河宝金剛院(現、南区の宝生寺)に、横浜村の薬師堂免田畠を寄進する旨の文書が残されている。横浜村は武蔵国久良岐郡に属し、神奈川湊の対岸、現在では市政の中心街になっている関内地区(中区)にあたる地域にあった。
ペリー一行の上陸
日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部、1874年(明治7年)刊行
江戸幕府が置かれた17世紀以降は、東海道の宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展する。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄え、対する六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出二つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村であった。
神奈川開港と都市横浜の誕生・発展
横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。太平洋航路の拠点として、また、捕鯨の際の供給基地として日本の港を利用することを望んだアメリカ海軍の黒船一行は六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)に無許可のまま2か月間投錨し、幕府の対応を待った後に横浜沖へと進み入り、その後幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。交渉の結果1854年(安政元年)に横浜村で日米和親条約が締結され、1858年(安政5年)には神奈川沖・小柴(現・八景島周辺)のポウハタン号上で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。
幕府は、東海道に直結し当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。横浜村には、短期間で居留地、深谷市在の笹井万太郎により波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられ、安政6年6月2日(新暦1859年7月1日)に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている。こうして、横浜は日本の玄関口の一つとなったことから、様々な文物をいち早く取り入れる国際色豊かな都市として発展し始めた。
神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店、中区)
日本郵船横浜支店(中区)
横浜村は幕府が設置した運上所(税関)を境に、以南を外国人居留地(横浜居留地)、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、以外を関外と呼んだ。外国人居留地には、イギリスやフランス、ドイツやアメリカを中心とした各国の外国商館がたち並んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。一方日本人居住地は横浜町と名付けて5区域に分割し、各区域に名主を置いて総年寄が町全体を統括した。明治6年、横浜町は第1区1番組に編入され、明治7年(1874年)6月14日大区小区制により第1大区1小区となり、1878年(明治11年)11月21日に郡区町村編制法に基づき、第1大区が横浜区となり、久良岐郡から分離して横浜区長が管轄することとされた。そして、1889年(明治22年)4月1日、市制が施行されると同時に横浜区は市となり、横浜市が誕生した。当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4 km²。面積は狭いものの、市制施行当時、すでに戸数27,209戸、人口121,985人(1889年末時点)に達した。その後、関内地区は市政と商業の中心地として発展する。
開港当初の横浜港には、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)が設置され、東西波止場はその形から「象の鼻」と呼ばれた。象の鼻は、現在の大さん橋の付け根部分にあたる。ここでの貿易は、生糸、茶、海産物が輸出され、絹織物、毛織物が輸入された。明治5年9月12日(1872年10月14日)には、新橋(後の汐留駅。現在は廃止)と横浜(現在の桜木町駅)をつなぐ鉄道が開業し、新橋・横浜それぞれの会場で盛大に開業式典が執り行われた。同年には、神奈川駅(現在の横浜駅近傍)と鶴見駅も開設されている。当時、生糸貿易の主導権は外国商館にあった。そのため、横浜商人と呼ばれた日本人貿易商は、1873年(明治6年)には生糸改会社を設立して競争力を高め、1881年(明治14年)には生糸荷預所を設立して生糸貿易の主導権確立に努めた。また、横浜商人たちは、県営水道の設置(1887年(明治20年))、横浜共同電灯会社の設立(1890年(明治23年))、十全病院の設立(1891年(明治24年))、生糸検査所、商業会議所の設立(1895年(明治28年))など、都市基盤の整備と商業の発達に大きく寄与した。
1909年(明治42年)には開港50周年を迎え、この年の7月1日 から3日間にわたって、横浜開港50年祭と銘打った数々の記念行事が催され、「全市は殆ど家族打連れて外出せしやの観あり」と伝えられた。できたばかりの新港埠頭で行われた式典では、森鴎外の作詞による横浜市歌が、市内小学生の合唱によって初めて披露され、各国艦船は祝砲を放った。また、このとき、市章の「浜菱」が制定され、市民の寄付による開港記念横浜会館(1917年(大正6年)竣工。現・横浜市開港記念会館、ジャックの塔)の建設が計画されるなど、市制施行20周年とあわせて盛大に祝われた。大正時代に入ると、鶴見川河口の埋立が始まって京浜工業地帯が形成され始め、横浜港は工業港としての性格をも持ち始めることとなる。
震災と戦災・接収の時代
関東大震災直後の横浜を視察する摂政宮(後の昭和天皇)
氷川丸(中区)
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災(大正関東地震)では、横浜港、関内を始め、市内全域で甚大な被害を受けた。東京より震源に近くほぼ直下型地震の直撃を受けた横浜市内は特に壊滅的な被害を受け、各国領事館の建物はすべて倒壊し、山手(横浜)地区の洋館群も壊滅的被害を受け、港湾機能・対外貿易都市としての機能は完全にマヒした。その後、震災復興事業により、日本大通りの拡幅、山下公園の造成、横浜三塔に数えられる神奈川県庁舎(キングの塔)や横浜税関庁舎(クイーンの塔)の建設などが行われ、1929年(昭和4年)にはほぼ旧状に復した。
昭和時代に入り、1926年(昭和2年)4月に第3次市域拡張が行われ、同年10月には区制が施行されて、鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区の5区が置かれた。以降も第6次まで続く市域拡張(1939年(昭和14年))と東京湾岸の埋立により市域は拡大し、市域面積は437.38 km²(2006年(平成18年))、行政区の数は18区となっている。1930年(昭和5年)前後には、現在山下公園に係留されている氷川丸など、豪華客船の就航が相次ぎ、横浜港は太平洋航路の乗船地として、客船黄金時代の一翼を担った。また、この頃の横浜港は、生糸貿易港から工業港へと変貌し、輸出、輸入とも、機械類・金属製品、鉄鋼の割合が高まった。この傾向は、第二次世界大戦中の軍需生産期、戦後の高度経済成長期を経て、より強まっていった。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、磯子区から鶴見区に至る沿岸部が焼き尽くされ、中区、西区の中心市街地は壊滅した。同年8月の終戦によりイギリス軍やアメリカ軍、ソビエト連邦軍を中心とした連合国軍が進駐し、横浜の中心市街地と横浜港は接収され、都市機能は麻痺した。連合国軍は、横浜税関ビルに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、後に東京の第一生命ビルに移転)と太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を置き、軍事拠点とした。空襲とそれに引き続く接収により、横浜の復興は大幅に遅れた。
1950年(昭和25年)、横浜国際港都建設法が制定され、復興に向けた取り組みが本格化する。1951年(昭和26年)には、対日講和条約が締結され日本の連合国による占領体制が終わり、新たに市長となった実業家で元貴族院議員の平沼亮三の下、接収解除に向けて動き始めた。また、この年には、横浜港の管理が国から市に移管された。条約が発効した翌1952年(昭和27年)以降、大桟橋や山下公園などが次々と接収解除された。1957年(昭和32年)には横浜国際港都建設総合基幹計画が決定され、今日に至るまでの都市計画の骨子となった。なお市域には475万m²余の在日米軍施設がある(2006年(平成18年)1月1日現在)。
戦後の発展
1956年(昭和31年)9月1日、制度の開始とともに、政令指定都市に指定される。この頃から、相模鉄道を中心とした横浜駅西口の開発が始められた。1959年(昭和34年)に行われた開港100周年記念祭では、横浜公園平和野球場(現・横浜スタジアム)で、横浜出身の美空ひばりや草笛光子が3万人の観客を前に歌った。1964年(昭和39年)5月には根岸線(桜木町 - 磯子)が開通し、同年10月には東海道新幹線の開業に伴い、横浜線との交点に新横浜駅が開設された。横浜駅西口地下街が完成したのもこの年で、横浜駅西口は急速に発展し始めた。また、1960年代後半(昭和40年代)には中区の元町商店街が活況を呈し、元町ブランドで固めた山手の女子高生たちのファッションは、後に1970年代後半(昭和50年代)のハマトラ(横浜トラディショナル・ファッション)ブームへとつながっていく。
横浜市営地下鉄
1963年(昭和38年)、日本社会党の衆議院議員であった飛鳥田一雄が市長となり、「革新首長」のリーダー的存在となった。1965年(昭和40年)1月、飛鳥田市政下、横浜市六大事業と呼ばれる都市計画プロジェクトに着手した。これは、(1)横浜みなとみらい21に代表される都心部強化、(2)金沢地先埋立事業による中小企業の集約化、(3)港北ニュータウンの建設によるスプロール現象の抑制と良質な住宅街の提供、(4)横浜市営地下鉄である高速鉄道建設事業、(5)高速道路建設事業、(6)横浜ベイブリッジ建設の6事業からなり、都市基盤の整備と中枢管理機能の充実を図るものである。
まず、高速道路建設に取りかかり、1968年(昭和43年)には神奈川県道高速横浜羽田空港線(浅田 - 東神奈川)が開通する。1972年(昭和47年)には横浜市営地下鉄(上大岡駅 - 伊勢佐木長者町駅)が開通した。また、1979年には横浜横須賀道路(日野―朝比奈間が開通し、1981年には狩場―日野間を、1982年には朝比奈―逗子間と逗子―衣笠間を供用開始した。
1977年(昭和52年)には金沢地先埋立が完成し、1990年(平成2年)に大黒埠頭の埋立(第2期)が完成すると、横浜の東京湾沿岸における大規模埋立事業は一段落した。日本社会党委員長として国政に復帰した飛鳥田のあとを受けて、1978年(昭和53年)に市長となった細郷道一も、六大事業の推進に力を注いだ。1980年(昭和55年)には港北ニュータウンの入居が始まり、1985年(昭和60年)には人口が300万人を超えた。また、1978年(昭和53年)には横浜スタジアムが完成し、横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の本拠地となった。
みなとみらい21(西区)
1989年(平成元年)、市制100年と開港130年を記念して、横浜博覧会が開催された。同年には横浜ベイブリッジも開通し、1994年(平成6年)の鶴見つばさ橋開通とあわせて、首都高速湾岸線の整備・延伸が進んだ。1990年(平成2年)、急逝した細郷のあとを引き継いで市長となった高秀秀信は、六大事業の中心となる都心部強化、横浜駅周辺地区と関内地区の間をつなぐ横浜みなとみらい21地区の整備を本格化させた。1993年(平成5年)には、みなとみらい21地区のシンボルとなる横浜ランドマークタワーが完成した。
高秀は、六大事業の継続に加え、港北ニュータウンや新横浜等における横浜市北部での新規事業を追加した。1999年(平成11年)よこはま動物園ズーラシアが開園し、1998年(平成10年)に完成した横浜国際総合競技場(現在の日産スタジアム)と横浜国際プールは高秀市政の象徴となった。2002年(平成14年)には、国際総合競技場で2002 FIFAワールドカップの決勝が行われ、国際プールではパンパシフィック水泳選手権が行われた。また、2002年(平成14年)には、横浜港大さん橋国際客船ターミナルの建替が完成した。横浜国際港都建設法に基く国際港都建設事業である横浜市内の都市計画道路は戦後進捗が遅れていたが、高秀市政期に事業化された区間も多く、一定の進歩が見られた。
2002年(平成14年)、高秀と争って新たに市長となった中田宏は財政改革、行政改革、医療と教育の民営化を軸にした政策を打ち出した。主な政策としては家庭廃棄物の分別収集、外郭団体の見直しや統廃合、公立病院や保育園の民営化、交通局や水道局の構造改革、新緑税導入、横浜都心の立地企業増加に向けた企業立地促進条例の制定、横浜港への客船寄港促進等を行い、2008年度(平成20年度)には、1961年度(昭和36年度)以来47年ぶりに、普通交付税の不交付団体となる等成果に現れた。また国際コンベンションの誘致も積極的に行い2010年日本APECの開催誘致を行った。一方では都市計画道路整備の予算が減少し事業速度の低下がみられた。
2009年(平成21年)、開港150周年・市制施行120周年を迎え、横浜市などが設立した財団法人横浜開港150周年協会が中心となって、様々な記念事業・祝祭イベントが行われた。同年4月28日から9月27日まで横浜みなとみらい21新港地区で開国博Y150が始まり(7月4日から9月27日まで、ヒルサイドエリア(横浜動物の森公園)でも開催)、4月19日には横浜動物の森公園で第20回全国「みどりの愛護」のつどいが開催された。5月31日には横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)国立大ホールにおいて、天皇皇后両陛下、内閣総理大臣など三権の長らを招いて、横浜開港150周年記念式典が挙行された。このほか、開港150周年を記念したプロジェクトとして、「象の鼻」地区を中心とした広場や緑地の整備、「開港150周年の森」づくり、横浜マリンタワーの再整備、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校の開校 などが実施された。また、同年7月に任期途中で中田が市長職を辞任した。第45回衆議院議員総選挙と同じ同年8月30日に行われた市長選挙で、東京日産自動車販売代表取締役社長の林文子が新たな市長に選ばれた。
2010年(平成22年)11月13日から14日には、パシフィコ横浜が2010年日本APECの参加国首脳会議の会場になった。2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災では、地震動による建造物の全半壊、液状化現象による建物損壊、大規模な停電、死傷者などの被害が発生した。また、福島第一原子力発電所事故により放出された放射性物質が市域にも降下したため、土壌の除染等の対応がとられた。一部wikipedia引用。※一部横浜市HP引用。
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