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中井町ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
神奈川県の南西部、足柄上郡の東端にあたる。大磯丘陵の北西部にある町域の3分の1は山林で、そのすべてが民有林であり、丘陵地の間の川沿いに農地と市街が位置する。西部には中村川、東部では葛川が町を縦断している。関東大震災によるがけ崩れで北部の川が堰き止められ震生湖ができた。震生湖という名はこれに由来する。震生湖は、日本一新しい自然湖であるとされ、湖畔には震災の調査に訪れた寺田寅彦の句碑がある。町の南西部には曽我山・不動山など200-300mほどの山があり、斜面にはみかん畑が点在する。
▼沿革
昔から農業が盛んで、酪農やミカン、煙草、野菜の栽培などが営まれてきましたが、昭和40年代以降、宅地の造成や企業の進出が進み、近年は、急速に都市化が進展しています。特にインターチェンジ周辺には、本町の特徴である緑豊かな自然との調和を目指した開発事業「グリーンテクなかい」(工業団地)が完成、流通関係や研究開発型の企業が進出し、21世紀に向けた独創的なまちづくりが進められています。
毎年4月29日に行われる五所八幡宮の例大祭では、江戸時代に作られた勇壮な山車(だし)4台が繰り出すとともに全国的にも珍しい神事「鷺(さぎ)の舞」が奉納され、町内外より大勢の見物客が訪れます。
町の北部、秦野市との境には、関東大震災のがけ崩れによって川が堰きとめられてできた、日本で一番新しい自然湖といわれる「震生湖」があり、休日には、ボート遊びを楽しむ家族連れや太公望たちで賑わいをみせていままた、厳島神社周辺をはじめ、町内各所より湧き出る清水や地下水を源とする、中井の“おいしい水”は、本町が全国に自慢できるものの一つです。
▼歴史
中井町は、神奈川県の南西部に位置する面積約20キロ平方メートル、人口約10,300人の緑豊かな町です。町の北部に東名高速道路秦野中井インターチェンジが開設されており、東京都心からは約1時間(都心より70キロメートル圏内)の距離にあります。
起伏に富んだ大磯丘陵の一角にあって、北に丹沢山地、西には富士山を仰ぎみることができます。また、南側に望む相模湾の影響を直接受けるため、冬暖かく、夏涼しい気候となっています。
明治41年に、中村と井ノ口村が合併して中井村となり、昭和33年、中井村誕生50年を契機に単独で町制を施行し、現在の姿になりました。
昔から農業が盛んで、酪農やミカン、煙草、野菜の栽培などが営まれてきましたが、昭和40年代以降、宅地の造成や企業の進出が進み、近年は、急速に都市化が進展しています。特にインターチェンジ周辺には、本町の特徴である緑豊かな自然との調和を目指した開発事業「グリーンテクなかい」(工業団地)が完成、流通関係や研究開発型の企業が進出し、21世紀に向けた独創的なまちづくりが進められています。
毎年4月29日に行われる五所八幡宮の例大祭では、江戸時代に作られた勇壮な山車(だし)4台が繰り出すとともに全国的にも珍しい神事「鷺(さぎ)の舞」が奉納され、町内外より大勢の見物客が訪れます。
町の北部、秦野市との境には、関東大震災のがけ崩れによって川が堰きとめられてできた、日本で一番新しい自然湖といわれる「震生湖」があり、休日には、ボート遊びを楽しむ家族連れや太公望たちで賑わいをみせていままた、厳島神社周辺をはじめ、町内各所より湧き出る清水や地下水を源とする、中井の“おいしい水”は、本町が全国に自慢できるものの一つです。
一部wikipedia引用。※一部中井町HP引用。
川崎市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
川崎市(かわさきし)は、神奈川県の北東部に位置する都市。政令指定都市。
神奈川県の北東部、県の最東端に位置し、東京都と横浜市にはさまれた細長い市域を持つ。市の北端には多摩川が流れ東京都との境となっており、東部には東京湾が広がっている。江戸時代から栄えていた歴史ある街で武家も多く、古くからの閑静な住宅地が多いが、ここ数十年で東京との近さから一気に近代化し、若者の街と言われるようになり、特に川崎駅前周辺は昼夜を問わず人が多い。駅から離れた多摩川沿いの低地や多摩丘陵にはのどかな田園風景が広がるが、丘陵部には新興住宅地が多く、東京湾岸に広がる埋立地は大規模な重工業地帯となっているなど、多様な面を見せる。
▼沿革
明治・大正期は川崎駅周辺で都市化が急速に進行する一方、丘陵地帯では従来の農山村も維持されていた。その後昭和前期になると鉄道路線の開業が相次ぎ、私鉄沿線には住宅地が、多摩川沿いの南武線沿線には主に工業地が展開した。
1872年(明治5年)-日本最初の鉄道開業(現東海道線)に伴い川崎駅が設置される。その後、郵便・電気などの公共サービスが整備される。
1883年(明治16年)-多摩川に六郷橋がかかる。
1889年(明治22年)-町村制施行により、後の市域を形成する橘樹郡川崎町、及び12ヶ村(うち2村は都筑郡)が成立。
1893年(明治26年)-大師河原村(現川崎区)の当麻辰二郎が梨の新種「長十郎」を発見(ただし発見年には諸説あり)。
1899年(明治31年)-大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が大師線の一部を開業する。以後、品川や横浜に向けて路線を延長していく。
1912年(明治45年)-神奈川県と東京府(現東京都)との境界が多摩川を境に整理される。
1912年(明治45年)-日本鋼管(後にNKK、現在はJFEスチール)川崎製鉄所が設立。臨海部の工業化が開始される。
1914年(大正3年)-川崎〜溝口(当時は高津村)間での乗合馬車運行が始まる。
1921年(大正10年)-川崎町で上水道整備が始まる。
1924年(大正13年)7月1日-2町1村が合併して市制施行。市域は現在の川崎区西部と幸区東部。人口4万8394人。
1926年(大正15年)2月14日-東京横浜電鉄(現在の東急)東横線が小杉町内で開業。
1927年(昭和2年)3月9日-南武鉄道(現在のJR南武線)川崎駅-登戸駅が開業。
1927年(昭和2年)4月1日-小田急小田原線が全線開通、稲田登戸駅(現向ヶ丘遊園駅)がオープン。
1927年(昭和2年)7月15日-玉川電気鉄道溝ノ口線(現東急田園都市線)開業。
1930年(昭和5年)-富士瓦斯紡績(現在の富士紡ホールディングス)川崎工場での労働争議で煙突男が出現。
1934年(昭和9年)-「川崎市歌」を制作・発表。
1937年(昭和12年)-陸軍の研究所が現多摩区の生田村(1938年に川崎市へ編入)へ移転。
1939年(昭和14年)4月1日-埋立地を除き現在の市域が確定。
1944年(昭和19年)10月14日-川崎市電が開業。
1945年(昭和20年)4月15日-川崎大空襲。川崎駅周辺や臨海部の工業地帯、川崎大師などに大きな被害が出る。
現代
1946年(昭和21年)-初の民選市長として金刺不二太郎が当選。
1947年(昭和22年)-戦後第1回市議会招集。
1948年(昭和23年)-現多摩区に日本女子大付属中学・高校が開設(現在の日本女子大学西生田キャンパス)。
1951年(昭和26年)-現多摩区に明治大学生田校舎が開設。
1952年(昭和27年)-現川崎区の富士見公園内に川崎球場(当時は川崎スタヂアム)が開場。
1952年(昭和27年)-向ヶ丘遊園が遊具施設を充実し有料化。
1957年(昭和32年)-現多摩区に専修大学生田校舎開設。
1957年(昭和32年)-人口が50万人を突破。この頃から市北西部が首都圏住民の良好な住宅地として人気を博すようになり、政令市に指定されるまでに人口が急増する主因となった。このため、首都圏へ向かう通勤・通学電車のラッシュは、全国有数の混雑となる。
1960年(昭和35年)-プロ野球・大洋ホエールズが日本シリーズで優勝し、市内でパレードを行う。
1964年(昭和39年)-多摩区によみうりランドが開業する。西生田駅が読売ランド前駅に、東生田駅が生田駅に改称。
1966年(昭和41年)-東急田園都市線溝の口駅-長津田駅が開業。
1967年(昭和42年)-現多摩区に日本民家園が開園。公営施設としては北部地域初の大規模文化施設。
1967年(昭和42年)-多摩区(現麻生区)東百合丘に調布学園女子短期大学が開設。
1968年(昭和43年)4月25日-東名高速道路が開通し、東名川崎IC(現宮前区)開設。
1968年(昭和43年)-市営鷺沼プールがオープン。
1969年(昭和44年)4月1日-市電が全廃。
1971年(昭和46年)-第2代の民選市長に伊藤三郎が当選し、革新自治体の一員となる。
1971年(昭和46年)-かわさきおやこ劇場設立
1971年(昭和46年)-生田緑地に川崎市青少年科学館開設。
1971年(昭和46年)-現宮前区菅生に聖マリアンナ医科大学開設。
1972年(昭和47年)4月1日-非道府県庁所在地では北九州市に次ぐ政令指定都市に指定され、5つの区が設けられる(川崎区、幸区、中原区、高津区、多摩区)。川崎市公害防止条例を施行する。夢見ヶ崎動物公園が開園。
1974年(昭和49年)-人口が100万人を突破。
1974年(昭和49年)-小田急多摩線が開通、新百合ヶ丘駅、五月台駅、栗平駅、黒川駅が開設。
1974年(昭和49年)-多摩区(現麻生区)に京王相模原線に若葉台駅が開設。
1976年(昭和51年)-全国に先駆けて「川崎市環境影響評価に関する条例」を制定し環境アセスメントを開始した。
1978年(昭和53年)-大洋ホエールズの横浜移転により、ロッテオリオンズが川崎球場をフランチャイズとする。第1回かわさき市民祭りを開催。
1979年(昭和54年)-政令指定都市移行を記念して高津区に川崎市民プラザ開設。
1980年(昭和55年)-国鉄横須賀線の新川崎駅が開業、川崎駅を経由しなくなる。自動車の川崎ナンバーが誕生。
1982年(昭和57年)-人口増加に伴い、高津区から宮前区を、多摩区から麻生区を分区し、7区制になる。
1982年(昭和57年)-第1次川崎公害訴訟が提訴され、大気汚染について国や首都高速道路公団、各企業の責任が追及される。
1984年(昭和59年)-「川崎市民の歌」を制作・発表。
1985年(昭和60年)-川崎市男女共同社会をめざす計画を発表。
1986年(昭和61年)-川崎駅東口に地下街川崎アゼリアが開業。
1986年(昭和61年)-新百合ヶ丘駅前に日本映画学校が開校。
1987年(昭和62年)-日本初のシネマコンプレックスと称するチネチッタが開業。
1988年(昭和63年)-川崎駅西口の再開発を巡ってリクルート事件が発覚。当時の川崎市助役へのリクルート社からのリクルートコスモス株譲渡による利益供与が明らかになり、やがて中央政界に影響が波及する。川崎市市民ミュージアム・ふれあい館・産業振興会館を開館。
1989年(平成元年)-かながわサイエンスパーク(KSP)が高津区に設置される。
1989年(平成元年)-4月11日に高津区のある竹林で1億円の札束が発見される(竹やぶ騒動)。
1990年(平成2年)-市民オンブズマン制度が発足。
1991年(平成3年)-ロッテオリオンズが千葉に移転し、川崎球場を本拠とするプロ野球チームが消滅する。毎月1日を「ノーカーデー」と定める。
1992年(平成4年)-新百合ヶ丘駅南口にエルミロードがオープンする。テナントのイトーヨーカドー新百合ヶ丘店は全国売り上げナンバーワンを記録。
1993年(平成5年)-Jリーグが開幕し、読売サッカークラブとして創立されたヴェルディ川崎が等々力陸上競技場を本拠地にする。ヴェルディ川崎は後期優勝。鹿島を下し、Jリーグ初代年間王者となる。
1994年(平成6年)-市のシンボルマークが決まる。
1995年(平成7年)-とどろきアリーナがオープン。ポイ捨て禁止条例がスタート。
1996年(平成8年)-市職員採用試験の国籍条項を撤廃。かわさき市民放送開局。外国人市民代表者会議を設置。
1997年(平成9年)-富士通川崎サッカー部がプロ化し「川崎フロンターレ」誕生。
1997年(平成9年)-東京湾アクアラインが開通。これにより千葉県とも隣接するようになった。
1998年(平成10年)-麻生区の新百合ヶ丘駅周辺地区が、建設省の都市景観対象を受賞する。
1999年(平成11年)-川崎公害訴訟が和解により決着する。岡本太郎美術館がオープン。
2000年(平成12年)-慶應義塾大学が新鶴見信号場跡地に新川崎タウンキャンパスを開設。
2000年(平成12年)-川崎球場スタンド撤去工事。翌年改修工事終了。
2001年(平成13年)-川崎市子どもの権利に関する条例を施行。
2002年(平成14年)-川崎市行財政改革プランを発表。
2002年(平成14年)-シネマコンプレックスのチネチッタがラチッタデッラとしてリニューアル。この頃から川崎駅周辺再開発が加速。
2002年(平成14年)-向ヶ丘遊園閉園。
2003年(平成15年)-高津区に「川崎市子ども夢パーク」がオープン。
2004年(平成16年)-麻生区に小田急多摩線はるひ野駅が開設。
2004年(平成16年)-川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー制度制定。
2004年(平成16年)-川崎駅西口にミューザ川崎シンフォニーホールが開設される。
2005年(平成17年)-川崎市路上喫煙の防止に関する条例を制定。路上喫煙重点禁止区域内での路上喫煙に過料2000円を課す事になった。
2006年(平成18年)-多摩区に市立多摩病院が開院。
2006年(平成18年)-川崎駅西口にラゾーナ川崎プラザが開業。
2007年(平成19年)-麻生区に昭和音楽大学が厚木市から移転。
2007年(平成19年)-麻生区に川崎市アートセンターオープン。
2007年(平成19年)-第3回アメリカンフットボール・ワールドカップが開催される。
2007年(平成19年)-成人ぜんそく患者医療費助成制度が開始される。
2008年(平成20年)-東京急行電鉄が同市から購入した宮前区内の土地の土壌汚染に関して、同市が搬入した焼却灰に原因があると東急から訴えられ、公害等調整委員会は、同市に損害賠償の支払いを命じる。
2011年(平成23年)-多摩区に藤子・F・不二雄ミュージアム開館。
2012年(平成24年)-ドラえもん誕生100年前を記念し、ドラえもんに「特別住民票」を交付。
▼歴史
川崎市の歴史では、現在の神奈川県川崎市の市域での歴史を述べる
川崎市は1971年(昭和46年)8月に、札幌市、福岡市とともに政令指定都市となった。1971年の行政区画審議会を経て、川崎市は川崎区、幸区、高津区、中原区、多摩区の5区を設けた。1982年には高津区南部の宮前地区を分けて宮前区が、多摩区西部の柿生、岡上地区を主として麻生区が分けられた。
横浜市、横須賀市に次いで、神奈川県下三番目の都市として川崎市が誕生したのは1924年(大正13年)7月1日のことであった。川崎町、大師町、御幸村の2町1村が合併したのが始まりで、その後合併を続けて現在の市域が確定したのは1939年(昭和14年)のことである。市制以前は、現在の市域と横浜市の一部を合わせて橘樹郡と呼ばれていた。1938年(昭和13年)10月1日に橘樹郡に最後まで残っていた稲田町、宮前村、生田村、向丘村が編入し、橘樹郡はなくなった。1939年3月27日に、都筑郡柿生村と岡上村の川崎市への合併が承諾され、これをもって都筑郡も消えた。
1623年(元和9年)に東海道の川崎宿が作られ多摩川の渡しの場として賑わい、明治時代末期の近代工業の誕生で、川崎は常に時代の先端を行く成長を遂げてきた。農村部は江戸、東京向けの産品を出荷する近郊農村として発達し、港湾部は京浜工業地帯の一部として港湾施設も整備され、工業都市として発展した一方で、工業や交通の公害、乱開発などの社会問題に直面してきた
古代
万福寺桧山公園西側の隣接地の王禅寺互層は、今からおよそ140万年前の地層と推定されている。王禅寺互層からは、アケボノゾウの臼歯の化石が見つかっている。小田急線沿いの稲田登戸病院付近の崖から、130万年前のトドやアシカの化石が発見されたことからも証明されるように、100万年前には多摩区、麻生区とその周辺はほとんど海であった。多摩ニュータウンから八王子方面にかけては、象が生息できる草原、湿原が広がっていたと推測される。
麻生小学校の隣接地にある柿生M点からは、川崎市内では他に例を見ない貝やサメの歯、カニ、単体サンゴなどの多くの化石が発掘され、多摩丘陵の土台となっている上総層群の研究の発祥地となった。柿生M点は、上総層群が一部露出している地域のひとつであり、海底にあった上総層群が隆起して多摩丘陵の原型が作られたのはおよそ50万年前とも言われている。
多摩丘陵の原型ができてから現在までの間に、川崎市域は大きな海進が3度あったと認められている。1度目の「おし沼海進」は約30万年前に起こり、当時の海岸線は、現在の多摩区菅と宮前区稗原を結ぶ線上付近にあった。2度目の「下末吉海進」はおよそ15万年前から10万年前に発生し、溝口、野川、千年に地層が堆積された。3度目の「縄文海進」の最盛期は6,300年前から6,000年前で、この頃の海岸線は、中原区宮内と高津区千年を結ぶ線上にあったと推定される。
川崎周辺で最も古い遺跡は稲城市坂浜の多摩ニュータウン471B遺跡で、6万年前と推定される先土器時代の石器が発見された。東高根森林公園北側の下原遺跡からは、26000年前の打製石斧が発見され、これが川崎市域最古の考古資料となっている。麻生区黒川の黒川東遺跡では24000年前の石刃、掻器などが発見された。
縄文時代の貝塚の子母口貝塚から発見された土器は、子母口式土器と呼ばれている。この時代の貝塚は他に高津区新作、久本などで発見されている。
麻生区の金程向原遺跡では、縄文時代中期の竪穴式住居跡が約110軒発掘されている。黒川宮添遺跡では94軒の竪穴式住居跡のほか、平安時代から近世にかけての遺跡も発掘されている。
縄文海退後の弥生時代の遺跡としては東高根遺跡があり、3世紀頃から8世紀にかけての古代人集落跡が確認されている。
古墳時代から律令国家成立
影向寺
発見された古墳時代の遺跡の中でとりわけ大きいのは、加瀬山で発見された加瀬白山古墳である。全長87メートル、高さ10.5メートルの前方後円墳は4世紀の終わり頃に作られたものと推定され、その規模から南武蔵一帯を支配した強力な首長が被葬されたと考えられる。加瀬白山古墳からは、古墳時代初期の秋草文壺や三角縁神獣鏡などが発掘された。
古墳時代の遺跡は西福寺古墳、馬絹古墳など梶ヶ谷古墳群と呼ばれる遺跡が数多く発見されているが、いずれも規模は加瀬白山古墳ほどは大きくなく、これらは地域の首長や有力者の墓であったと考えられる。
7世紀頃に成立した武蔵国の国都の府中から海へと通じる道の府中街道沿いにある最も近い穀倉地帯として、橘樹郡はいち早く農業地帯として開発された。千年伊勢山台北遺跡は郡衙の跡と見られ、この地域が古代橘樹郡の中心地であった。遺跡は、律令国家で成立した武蔵国橘樹郡の正倉であり、この西方400メートルの地点にある影向寺は郡寺であった可能性が高い。影向寺とその周辺から出土した平瓦の調査から、影向寺創建の年代は7世紀後半から8世紀の始めと推定される。律令下の武蔵国橘樹郡には、橘樹(たちばな)、高田、御宅(みやけ)、県守(あがたもり)の4つの郷が当初は置かれ、後に駅家郷が加わった。このうち橘樹郷は影向寺の一帯、高田郷は横浜市港北区の高田町一帯、御宅郷は加瀬白山古墳のある北加瀬、南加瀬一帯、駅家郷は高津区末長周辺、県守郷については津田山周辺と推測されている。
近世以前
北条早雲
奈良時代には都に通じる官道の東海道があり、橘樹郡の小高に駅が置かれた。小高から荏原郡の大井駅に向かう人々は丸子の渡しを使った。
12世紀に鎌倉幕府が成立すると、政治文化の中心地は鎌倉に移った。鎌倉に通じる鎌倉街道とその支道網が設けられ、平間・丸子あたりで多摩川をわたる「下ノ道」と、菅・登戸・溝口あたりで分かれて渡河する「中ノ道」が主要道となった。多摩丘陵は前面に多摩川が流れ、急崖を成すので、鎌倉防衛の前線として重視された。鎌倉幕府の御家人で稲毛荘を支配した稲毛三郎重成は、小沢城(現在の多摩区菅仙谷)や枡形城(現在の多摩区桝形)を拠点にし、支城は丘陵に点在していた。稲毛三郎重成の嫡子・小沢重政は小沢城の城主で、この地周辺の領地を治めていた。枡形城も小沢城も、重成・重政の時代には戦場として使われた記録はなく、南北朝時代に入った1351年(正平6年/観応2年)に、足利尊氏の弟直義が、尊氏と対立した時に小沢城を前線基地として使用した記録がある。枡形城が最初に文献に登場するのは、戦国時代の1504年(永正元年)の立河原の戦いにおいてで、上杉顕定と戦った北条早雲の拠点として登場する。
丸子は渡船場として拓けた村で、戦国時代にも往来は盛んであった。世田谷地域が拓けて江戸と小田原が直結する矢倉沢往還ができると、二子の渡しが重要な渡船場となった。
江戸時代
1590年(天正18年)、小田原城陥落により、北条早雲以来の小田原北条氏(後北条氏)の関東支配は途絶えた。同じ年の8月、豊臣秀吉の命を受けた徳川家康は三河を離れ、江戸に入国した。近隣農村の知行割りの政策で、現在の川崎市域は次々と天領、旗本領が形成された。
小杉御殿跡
江戸の虎ノ門と平塚の中原を結ぶ中原街道が最初の官道となり、二代目秀忠は小杉に小杉御殿を作った。三代将軍家光の時に五十三次が整うまでは、小杉御殿のある小杉村と丸子の渡しのある上丸子村が、川崎市域で最も人々の往来が多く繁栄していた。
川崎宿は1623年(元和9年)に正規の宿駅として発足した。1863年(文久3年)の川崎宿には、本陣2軒のほかに平旅籠39軒、飯売旅館33軒があり、翌1864年(元治1年)の記録では飯盛女が66人いた。東海道川崎宿は江戸に入る門戸として重視され、中原街道、矢倉沢往還、津久井道などの脇往還も江戸との交流は盛んであった。
二ヶ領用水
多摩川流域の各村は川に接していながらも、水位が低いため川の水を水田耕作に利用できなかったばかりか、多摩川は洪水のたびに流路を変え、しばしば農民を悩ませていた。治水と農業用水の確保を目的として、江戸に入府した徳川家康の命により、代官の小泉次大夫吉次が二ヶ領用水の開削を指揮し、1611年(慶長16年)に完成した。18世紀に入ると、川崎宿・田中本陣の田中休愚による用水路の大改修が行われた。二ヶ領用水は、川崎の農業を大きく発展させた用水だが、日照りが続いて水が不足すると、上流と下流の村が水論で激しく対立する場でもあった。総延長32キロの二ヶ領用水は被害を受ける範囲も広く、1821年(文政4年)に起こった溝口水騒動は、その対立が顕在化した一例であった。
江戸時代は農村社会の貧富の差が拡大し、用水普請の夫役、川崎宿や甲州街道の布田宿などに人夫を出す助郷役などの負担で、下層農民の暮らしは困窮した。1787年(天明7年)の飢饉時には900石高の天領の登戸村でも打ち壊しが発生し、中野島村・登戸村の2村の農民は、登戸の豪農、玉川屋弥兵衛の屋敷を襲い、米俵や衣類などを奪った。
禅寺丸柿の原木
江戸時代中期以降、江戸の商品経済が発展すると、江戸近郊の川崎市域、とりわけ中原街道、大山街道、津久井道など脇往還沿いで、農業の傍ら商業を営むものが増えた。王禅寺村の禅寺丸柿、黒川村の炭、市ノ坪・宮内の草花、溝口・登戸付近の菜種油、木月・市ノ坪のそうめんの他、草履や草鞋、筵、菰、笊、俵などが販売目的で生産され、川崎宿や江戸に商品として出荷された。農業の兼業として出発した農間余業は、農村の大きな現金収入源となり、本格的に商売に転身する農家も増えた。
大師河原村の製塩業(大師河原塩田)は寛文年間に始まり、江戸を中心に各地に販売された。品質や評判は赤穂や瀬戸内の塩がはるかに上であったと言われ、江戸時代中期以降、海上交通が整備されて瀬戸内の塩が安定供給されるようになると、大師河原の塩は魚屋のたて塩や豆腐の凝固用に使われた。また、「池上新田」の開発で知られた池上太郎左衛門もここの名主であった。塩田は明治時代初めまで存在したが、その後の工業化で姿を消した。
稲毛領でとれる米は稲毛米と呼ばれ、江戸でも人気の良質米であった。江戸時代後期になると、稲毛米を原料とした酒や醤油の製造が盛んになった。とりわけ溝口の稲毛屋(上田家)は、酒造とともに醤油の醸造も行って豪商となり、江戸の醤油株仲間のリーダー的存在であった。醤油造りは天保年間には稲毛領では溝口、登戸、長尾村にそれぞれ一軒ずつであったが、幕末の慶応4年には8村10軒に増加し、銚子や野田の醤油と競うほどであった。
菜種油製造は古くから宿屋やその周辺にあったが、外国との貿易が始まると生糸に次いで菜種油が人気となり、専業にするものも現れた。慶応年間には岩川村、長尾村で製造が行なわれた。
幕末に安政五カ国条約が結ばれ、横浜が開港地となると、横浜へ地理的に近かった川崎でも、輸出品である生糸の生産が盛んに行われた。宿河原の関山五郎右衛門のように、養蚕技術を本に著す篤農家も現れた。
川崎大師大本堂
川崎大師は厄除大師として信仰されるようになり、特に江戸時代後期から江戸庶民の行楽の対象として栄えた。1813年(文化10年)には徳川家斉の参拝が行われ、以後歴代将軍の公式参拝は慣例となった。
明治時代
自由民権運動
国会開設の実現を目指す自由民権運動は、神奈川県下では相州で始まり、1880年(明治13年)から翌年をピークに、三多摩で拡大した。府中街道と矢倉沢往還の交差地点にある溝口村の上田忠一郎の家は、橘樹郡の自由民権運動の一大拠点となる。上田家は原町田から東京へ出る民権家の宿駅となり、自由党副総裁中島信行をはじめとした名だたる運動家が集まった。上田忠一郎は醤油で財を成した稲毛屋の7代目当主で、1879年に神奈川県会議員に選出されると、やがて家督を譲り政界に身を投じる。長尾村神木の井田文三とともに1880年9月19日に溝口の宗隆寺で、橘樹郡で初めての政談演説会を開催した。
渡田村出身の山田泰造は、代言人資格を1877年(明治10年)に35歳で取得し、自由党の代言人として弾圧からの民権運動の擁護で全国で活躍した。1890年(明治23年)7月に行われた初の衆議院選挙では、再興自由党から出馬し、大差で当選した。1898年(明治31年)までの8年間で、地租軽減や地価修正運動で民党議員の一人として活躍した。
丸山教
幕末から明治にかけて、封建制の解体による大きな社会変革にともない、神道を基盤とした新宗教が全国各地で成立した。1875年(明治8年)、登戸村の伊藤六郎兵衛が興した丸山教もその流れの一つに位置づけられる。丸山教は富士信仰の一派から発展し、津久井街道を通って信者が登戸に集まるようになった。1880年(明治13年)には、多摩川の河原で祈る会が行われ、村人口が1000人強であった頃の登戸に7~8000人の信者が集まった。1884年から87年の松方デフレの時期、農民は非常に困窮し、丸山教の指導者の一人の西ケ谷平四郎は信者を広く獲得し、これらの信者が耕地を放棄したり、租税を収めないなどの騒ぎが大きくなった。自由民権運動の隆盛とちょうど時期と地域が重なっており、政府当局は両方が結びつくことを恐れていたため、丸山教本院は西ケ谷平四郎を追放、この騒動は落ち着いた。
市域の発展と築堤
宿駅伝馬制の廃止と1827年(明治5年)の新橋ー横浜間の鉄道開通で、川崎町は宿場町としての役割を終えて急に寂れたが、明治時代中期には、川崎大師への参詣客で再び活気を取り戻した。川崎停車場の前には160台以上の人力車が待機し、参詣客を運んでいた。1899年(明治32年)1月21日の「お大師様の日」に、六郷橋駅から川崎大師への門前まで大師電気鉄道が開通し、「エレキで走る車」として話題になった。明治30年代前半から川崎共立銀行など金融機関が集まり、1913年(大正2年)には橘樹郡役所が川崎町砂子に移転し、川崎町は周辺地域の流通拠点となってくる。川崎遊郭の娼妓の数が最大になるのは1912年(明治45年)で、324名にのぼった。
有吉忠一
多摩川は度々水害を起こしていた。明治40年、43年、大正2年の水害は特にひどく、築堤を望む声が高まった。1914年、御幸村の村会議員秋元喜四郎が、編笠をかぶった一団を率いて神奈川県庁に陳情したアミガサ事件を受けて、新任の有吉忠一県知事は築堤工事を開始し、大正7年から15年をかけて、多摩川河口から久地までの間に堤防が作られた。堤防工事によって、中原村丸子橋近くの青木根、松原通りの集落は立ち退きを命じられた。
また、水害を起こすたびに多摩川の流路は変遷を重ね、川の左右に飛地が散在する状況となっていた。明治40年、43年の水害の後には、府県を挟んだ飛地は堤防整備の障害となりうるという判断のもと、神奈川県と東京府の境界線を多摩川上に引き直すという法案が成立し、1912年(明治45年)4月1日に施行された。川崎市と東京都の境界はこの時のものが引き継がれているが、線引きが変わった名残りとして、等々力・宇奈根・布田など多摩川の両岸に同じ地名が存在している。
農漁業の変化
大師河原村では、明治の始めから海苔の養殖が始まり、大正初期には養殖漁家は450戸を数え、東京湾内でも有数の海苔の名産地となった。1893年(明治26年)には、大師河原村の篤農家当麻辰次郎が、多産で病害に強い品種の梨、長十郎梨を育成し、またたく間に地域に普及した。長十郎梨は多摩川梨との商標で出荷され、大師河原村は一大生産地となった。田島村では、篤農家の吉澤寅之助が1898年(明治29年)に「伝桃」という桃の新品種を育成し、全国に広まった。これらの梨、桃の栽培は、大正期に入ると次第に多摩川を北上し、稲田村まで広がった。
大師河原の梨、桃栽培は1917年10月の台風による高潮で痛めつけられた。多摩川下流域の梨栽培を決定的に衰退させたのは、1918年から始まった多摩川の堤防工事であった。この工事で、果樹園だった河川敷の土地はそっくり買い上げられた。
中原村、高津村、登戸村は古くからの街道筋の宿場町で、それぞれ市街地を形成していたが、周辺部は全般的に農村の面影が強かった。住吉村の市ノ坪は日本草花の栽培、宮前村の馬絹は花卉栽培、柿生村や岡上村では甘柿の禅寺丸がそれぞれ盛んに出荷された。柿生村と生田村では養蚕が農家の副業として行われた。
工業化と公害、労働争議
川崎に初めて進出した大工場は、1907年(明治40年)に御幸村南河原に建設された横浜製糖(現在の大日本明治製糖)川崎工場であった。同年に東京電気(現在の東芝)が操業を始め、その他富士紡川崎工場、浅野セメント、日本鋼管、鈴木商店(現在の味の素)、いすゞ自動車、第一セメントなど従業員1000人以上の企業が次々と進出し、川崎町は京浜工業地帯の中心のひとつとなった。
鈴木商店は川崎町久根崎に工場を完成させ、1915年(大正4年)から操業を開始した。工場から排出される塩素ガスが公害をもたらし、1923年(大正12年)には大師町の漁師約1200名が鈴木商店川崎工場におしかけて、海苔の被害の責任を追及したが、鈴木商店はそのつど若干の解決金を手渡すのみで抜本的な解決とはならなかった。
富士瓦斯紡績工場は1925年(大正14年)に工事が完了し操業を開始、以後戦前まで全国でも有数の紡績工場であった。昭和初期まで多い時で6000人前後が働いていたが、その多くは現在の小学生、中学生の年齢の少女が、当時の全国の他の紡績工場と同じく、劣悪な環境下で働かされ社会問題化した。多くの労働争議の中で、1930年(昭和5年)の「煙突男事件」は日本よりも海外で大きく報道された。
京浜運河と新平和橋(2009年2月)
田島村から町田村の海浜では、浅野総一郎らによる広大な埋立地造成の事業が開始された。品川と横浜の間の海は未だ遠浅で、転覆事故が相次いでいたことから、浅野総一郎は京浜運河の建設も手がけた。臨海部の埋め立て地には日本鋼管ほか大工場が進出した。
浅野セメントは粉塵問題で東京・深川で住民と対立し、1917年(大正6年)に川崎に工場を移転した。地元の反対を押し通した移転後も周辺への粉塵被害は大きく、大正から昭和にかけて、梨や海苔生産に被害を受けた大師河原村ほか周辺住民は、しばしば集会を開き抗議行動を行った。1927年(昭和2年)には大師町代表が国や県に抗議を行い、同年8月29日には大師町民およそ200名が浅野総一郎社長宅に押しかけるという事件も起こった。
工場の建設に携わる労働者は地方出身者で、労働条件や賃金をめぐるトラブルは絶えず、明治時代後半から、労働運動は自然発生的に始まった。友愛会初の地方支部となる川崎支部は、1913年(大正2年)に発会し、大正時代の川崎の労働運動に影響を与えた。
大正期から敗戦まで
川崎町では1921年(大正10年)6月に待望の水道が敷設された。それ以前は二ヶ領用水の水を生活用水として使用していた。そのため1886年(明治19年)のコレラ流行時には、川崎町で患者60人のうち40人が死亡、大師河原村で53人のうち43人が死亡、橘樹郡内では338人の患者が発生、そのうち254人が死亡していた。市の合併話はこの水道敷設から現実味を帯び、大正11年には大師河原村と御幸村への給水が開始されたことをきっかけに、3町村は合併、1924年(大正13年)に川崎市となった。
1923年9月1日の関東大震災では、東京や横浜のように大規模な火災こそ発生しなかったものの、川崎市域全体で全壊家屋2916、半壊家屋4455、死者383人、行方不明16人の被害を出した。工場が集中する川崎町、田島町、大師町の三町が被害全体の76%にあたり、特に富士紡川崎工場は全壊12800坪、半壊2600坪、建物19棟が崩壊した。とりわけ夜勤明けの女工が眠っていた寄宿舎の倒壊は惨事となり、圧死者154名、重傷者34名のほとんどが地方出身の女子労働者であった。震災時のデマによる朝鮮人の虐待は川崎南部でも発生した。富士紡川崎工場の後片付けに雇われた2名、田島町塩浜で1名、川崎駅前で1名の朝鮮人が殺害された。川崎町小土呂では朝鮮人と間違えられた日本人1名が殺害された。
現在の川崎区と幸区を市域として人口5万人で出発した川崎市は、1933年(昭和8年)に中原町を合併した。丸子橋架橋の寄付金で町財政が苦しくなったことが要因のひとつであった。その後次々と多摩川沿いの北部の町村を合併し、1940年には人口31万人の都市となった。この人口増加は町村合併と、日中戦争以後の軍需工場の新設ラッシュによる。1936年には従業員5名以上の工場が103であったが、37年に137、38年に250、39年に447と増加し、それにつれて全国から労働者が流入した。
多摩川の砂利の採掘は江戸時代から行われていたが、あまりに大量に掘ったために堤防が壊れやすくなったこともあり、1934年(昭和9年)に多摩川の砂利採掘は禁止された。砂利採掘事業は「陸掘り(おかぼり)」へと移行することとなり、東京横浜電鉄が中心となって東京川崎砂利株式会社が設立され、等々力緑地一帯の砂利採掘が行われた。採掘跡は戦後釣り池となり、東横水郷と呼ばれた。
新鶴見信号場(かつての新鶴見操車場)(2004年6月17日撮影)
1925年(大正14年)に工事が開始された新鶴見操車場は地域に影響を与えた。橘樹郡の中丸子村、中原町、日吉村、鶴見町にまたがる、総面積8000ヘクタールの広大な土地へ工事に、加瀬山は切り崩され、東横住宅や三菱重工の建設敷地に使われた。土地の人々は買収、道路問題、移転料の問題で苦しんだ。
久地円筒分水
資金難により、二ヶ領用水が用水組合から川崎市の手に委ねられると、神奈川県は平瀬川と三澤川を改修し、久地円筒分水をつくり、上河原堰堤をつくった。当時の技術の粋を集めた久地円筒分水は1941年(昭和16年)に完成した。
1939年には軍需工業都市を目指し、日本初の公営工業用水道をつくられ、京浜工業地帯は軍需工業に一変した。すでに開通していた南武砂利鉄道が、工業地帯造成の資材を三多摩から運び、工場は市域内陸部に次々と進出した。第101連隊が再編されて内地防衛の東部62部隊ができると、軍部は実践訓練用の軍用地に多摩丘陵の向丘村と宮前村、横浜市の元石川町にまたがる広大な農地と山林の強制収用を1940年8月に開始し、「溝ノ口演習場」とした。同じく1940年に生田村の枡形山に陸軍科学研究所が移転し、2年後の1942年に登戸研究所として独立、秘密兵器の研究、開発、指導にあたった。1942年11月には宮崎台に「溝ノ口兵舎」が新設され、1528人の兵隊が駐屯した。
戦争の拡大で成人男子が次々と戦場に送られる中、重工業の労働力は小学校や高等科を卒業した少女が担った。川崎の労働力不足を補うため1942年12月、全国から女子勤労報国隊の受け入れが始まり、1943年には北海道や東北の農村女性1万人が川崎の軍需工場に就労した。
1944年(昭和19年)8月、川崎市では三年生から六年生の学童7500人が、現在の伊勢原市を含む神奈川県中郡など県内の農村地帯と、川崎北西部の丘陵地帯に疎開した。
軍需工場の集中する川崎は1942年4月18日に本土初の空襲にあい、1944年から集中的な空襲を受けるようになった。最大の空襲は1945年4月15日夜10時ごろから始まった川崎大空襲で、臨海工業地帯と蒲田など東京南部が攻撃目標であった。空襲警報は16日午前1時10分に解除され、明け方5時ごろに鎮火した。空襲全体の被害は、全半焼家屋は3万を超え、工場は287、罹災者は死者を含め10万人を超え、川崎市域では死傷者約1000人、負傷者約15000人といわれる。
戦後復興と高度経済成長
1943年に39万人余いた市の人口は、敗戦時には20万人余に落ち込んだ。1945年8月30日から神奈川県に進駐を始めた連合国軍は、もとの軍事施設や軍需工場を接収した。食糧難の時代でも、まだ川崎市域には1000ヘクタールの農耕地が残っていたので、県は食糧の自給と工業用水の利用のために1946年から4年をかけて、資材も人力もない条件下で三沢川を改修、宿河原堰堤を作った。闇市は市内の各所に設けられ、例えば市役所前の疎開跡地に約100、大師停留所付近に約20、東横線新丸子駅前通に約20,溝の口駅前に約100,登戸駅前には約30の店が並んでいた。
金美館チェーンを所有していた美須鐄は、戦後の1945年10月にいち早く川崎銀星座を復興し、1946年の間には合計6つの映画館を次々と作り出し、娯楽を求める大衆に敏感に反応した。
焼け野原となった京浜工業地帯からいちはやく稼働したのは、1945年12月の昭和電工川崎工場で、他の工場も続々と操業を始めた。1946年2月には昭和電工川崎工場に昭和天皇が行幸した。
江辺市長の市費の着服と新円の不当獲得が明るみに出たことで1946年5月に退職、代わって川崎市初の公選市長に金刺不二太郎が選出された。1959年、金刺市長は臨海部に新しい埋立地197ヘクタールを造成、千鳥町と名付けられた。この敷地に日本石油化学を始めとした企業群がコンビナートを形成した。さらに1962年には埋立地445ヘクタールの浮島町が完成し、東燃石油化学をはじめとしたコンビナートが操業を開始し、日本最大の石油化学コンビナート地帯の京葉工業地帯の一翼を担った1。京浜運河には人工島の扇島が造成され、1976年11月にこの場所で日本鋼管京浜製鉄所が操業を開始した1。
住宅供給と乱開発
市人口の成長はすさまじく、敗戦直後20万人であった市人口は23年後の1968年には91万人を超えた1。東急電鉄の五島慶太の「田園都市」構想のもとに、宮前地区の土地買収から1953年に着手し始めると、北西部の土地投機は加熱し、高度経済成長に乗って他私鉄系企業も開発に参入し、スプロール化に拍車をかけた1。区画整理に反対する運動は神奈川県、川崎市への陳情や、横浜地方裁判所への訴訟へと発展した1。田園都市建設の事業は、1969年夏には土橋・宮崎地区で強制執行が行われるなど、多くの紛争を強行突破した1。1956年(昭和31年)に施行された首都圏整備法は、既成市街地の周りに緑地帯(グリーンベルト)を確保することを定め、開発を抑制するものであった1。当初、東急の開発予定地域はそのほとんどがグリーンベルトに指定されていたが、昭和33年、東急の働きかけにより、金刺市長は開発予定地を住宅地域に指定替えし、昭和36年には横浜市も東急の要求を受け入れた1。
ニュータウン百合丘を全国に知らしめたのは、東京映画製作の映画「喜劇 駅前団地」であった1。森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺、淡島千景が出演する喜劇映画で、百合丘の名が実名で登場した1。封切されたのは第一団地の入居が完了した1960年(昭和35年)秋で、この翌年の第二団地入居者の競争率は100倍を超えた1。
開発優先の傾向は、1965年5月の久末灰津波事件の人災を招いた1。国鉄川崎火力発電所の残灰で久末の大谷戸を埋め立てて宅地を造成したが、長い梅雨で灰の山が崩れ、「灰の津波」は住宅15軒を飲み込み、24名の死者と17名の重軽傷者を出した1。
公害問題と訴訟
工業発展とともに公害が問題となり、住民による反公害運動は活発化した1。早くも1951年には東渡田住民が煤煙瓦斯防止対策の会を作って市へ陳情した1。1963年臨海地域は煤煙規制法による規制地域に指定、1969年には大師・田島地区が公害病救済特別措置法の指定地域になった1。川崎の公害反対運動は全国の他地域よりも遅れ、ようやく1970年に公害病友の会が発足された1。1970年、川崎市、横浜市、神奈川県と日本鋼管は、全国初となる公害防止協定を締結した1。川崎市は公害病認定制度を施行、気管支炎に対する医療介護手当の支給を決定した1。
公害問題の噴出は、工業一辺倒であった金刺市政に対する批判を生んだ1。1971年4月に7期28年間を務めた金刺市長は辞任し、伊藤三郎が市長となる。
1971年、現在の川崎区全域と幸区のほぼ全域が大気汚染地域に指定され、上平間では初めての喘息発作の学童犠牲者が出る1。大気汚染注意報は1969年29回、1970年19回、1971~75年はそれぞれ7~9回と減少し、主要47工場の硫黄酸化物の年間排出量は1972年の56919トンから1978年10083トンに減退した1。1970年代の登録被認定患者は4158人に及んだが、1975年をピークに年々減少した1。川崎市の公害病認定患者は、1994年までに5911人、死者1500人を数えた1。
1982年、川崎公害訴訟は国、公団および14企業を相手に、臨海部に住む喘息患者と遺族119人の原告となって一次訴訟提訴が始まり、1994年の判決後控訴に及んだが、1996年に原告に対し14企業が謝罪、約31億円で和解した1。国と公団に対する訴訟は継続し、1999年5月の東京高裁で最終的に和解合意された1。
工業の後退と再開発
ラゾーナ川崎プラザ
かながわサイエンスパーク
1959年に制定された工場立地法と「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」(工業等制限法)により、一定基準を超える工場の新増設が制限された1。川崎市では丘陵地の西部を除く全域に適用され、大規模工場の新増設は外部に用地を求めて移転せざるを得なくなった1。1972年の工業再配置促進法では、工業集積の高い地域から低い地域へ工業を誘導しようとするもので、川崎は工場移転を促進する側に置かれた2。これらの公害防止の法整備にともなう市外への工場移転は、同時に川崎の工業地域の空洞化、工業都市川崎の体質を改変する結果となった2。
従業員100人以上の事業所(工場)の数は、1970年の243工場から1995年121工場に減退した2。工業従業員数は1969年の225,868人を最高に減少し、1998年には110230人、以後は10万人を下回った2。
1990年までの川崎の工業製品出荷額は、東京23区、大阪市に次いで全国3位を占めていたが、その後低調となり、横浜市、名古屋市を下回った1。1970年頃からは市外への工業の分散、移転が盛んになり、工業生産から研究開発事業への転換を図る企業が増加してきた1。
市内各所の工場跡地は、工業地として継続使用された他、住宅地や学校に転用された2。工場跡地のうち駅付近の市街地については、商用利用と再開発に利用された2。1989年、幸区の日立製作所跡地には、超高層ビル2棟を主体とした新川崎三井ビルディングと住宅団地が建設された2。川崎駅西口の東芝工場跡地は2001年に一切の施設を整理し、大規模開発により横浜製糖跡地を含めた場所には、ラゾーナ川崎をはじめ、高層ビルが建てられた2。高津区池貝鉄工跡地はかながわサイエンスパークに代わった2。
一部wikipedia引用。※一部川崎市HP引用。
秦野市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
秦野市(はだのし)は、神奈川県中西部の市。
市域は、東西約13.6キロメートル、南北は約12.8キロメートル、面積は103.61平方キロメートルで、県内19市中4位の広さを持つ。丹沢の麓に位置し、市域の半分は山林である。市街地は四方を山に囲まれている。神奈川県の行政区域としては湘南に含まれているが、海には面していない。北部と西部に丹沢山地が連なり、東は相模平野と秦野盆地に挟んでいる大根台地があり、南には大磯丘陵が横たわる盆地(秦野盆地)が市の中心部である。盆地内には金目川水系の河川により複合扇状地が展開する。
<山>
大山、行者岳、塔ノ岳、新大日、烏尾山、二ノ塔、三ノ塔、鍋割山、櫟山、弘法山、権現山、岳ノ台
<河川相模川水系>
藤熊川、中津川
金目川水系:室川、水無川、葛葉川、金目川、大根川、善波川
酒匂川水系:四十八瀬川
▼歴史
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が1030年ごろ秦野に移り住んで波多野氏を名乗った。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。波多野城は一族の居館である。その後、鎌倉幕府の御家人となり、後の戦国大名の波多野氏となった。
1927年:小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)小田原線開通。
1955年1月1日:中郡秦野町、南秦野町、東秦野村、北秦野村2町2村が合併。市制施行。1955年4月15日:中郡大根村(真田を除く)を編入。
1955年7月28日:中郡西秦野村、足柄上郡上秦野村合併、町制を施行し中郡西秦野町となる。
1963年1月1日:中郡西秦野町を秦野市に編入、現在に至る。
1981年4月25日:東名高速道路の秦野中井ICが完成。
1984年:秦野のたばこ栽培終わる。
1995年11月19日:ジョイフルタウンジャスコ(現・イオン)秦野店開店
1996年6月:鶴巻温泉駅ロータリー完成。
1996年12月14日:秦野駅新駅舎一部供用開始。
2008年5月27日:災害相互応援協定を静岡県富士宮市と協定書を交わした。
2009年1月13日:秦野市の人口が17万人に達する。
2010年5月23日:第61回全国植樹祭の式典・植樹会場に秦野戸川公園がなる。
一部wikipedia引用。※一部秦野市HP引用。
小田原市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
小田原市(おだわらし)は、神奈川県西部の市である。国から特例市に指定されている。神
奈川県のほぼ南西端に位置し、酒匂川の流れる足柄平野を中心に、東は大磯丘陵の南西端である曽我丘陵と呼ばれる丘陵に、西は箱根に連なる火山の外輪山の跡である山地となっている。南は相模湾に面し、遠浅の海に小漁港が点在している。
沖合いには、関東大震災の震源地となった相模トラフが伸びている為、地震対策に力が入れられている。
気候は太平洋側気候の地域で、四季を通じて温暖ではあるが、冬場は海側から風が吹き込む。
▼沿革
室町期以前の小田原は、経済的機能をもつ宿町と防御施設としての城郭とが密接に関連し合いながらも、それぞれに成長を遂げていました。しかし戦国期に入り、戦国大名北条氏によってその領国の中心地となると、政治的な機能の高まりとともに、2代氏綱の大永年間頃から徐々に宿町の整備が行われ、小田原城も次第に拡張・整備され、5代氏直の天正年間までに軍事・政治・経済等の諸機能が有機的に統合した中世都市として完成を見るに至りました。
江戸時代を迎えると、これを基礎として近世小田原宿が成立し、これが今日の小田原市街地の基礎となっているものです。
こうして、明治時代までは、ほとんど以前のままでしたが、大正9年国鉄熱海線が本市まで開通し、その後、大正12年9月の関東大震災では、当時の小田原町は一瞬にして壊滅したので、大正4年頃から立案されていた幹線街路の拡幅を震災復興事業として行われました。
昭和11年3月、都市計画法適用町村としての指定を受け、ここに近代都市建設の第一歩を踏み出し、同13年に都市計画区域を決定、同14年に風致地区を指定し、同15年12月に市制が施行され、同17年に都市計画街路小田原足柄線を初めて計画決定しました。
昭和20年8月15日未明に戦災を受けた本市は、同21年9月特別都市計画法の適用を受け、直ちに戦災復興土地区画整理事業に着手し同24年に完成しましたが、これとともに、小田原駅を中心として酒匂川右岸一帯に街路の追加変更を行い、重要幹線街路事業、連絡街路事業、生産再建整備事業等により9,000mを築造しました。
昭和23年には、初めて用途地域を酒匂川右岸一帯に指定し、同時に中央公園と久野公園を計画決定し、昭和31年町村合併後初めて川東地区を含めた大掛かりな用途地域、街路網の追加変更を行いましたが、これが現在の計画決定のもとになっています。
また、昭和43年6月15日、新都市計画法が公布され、昭和45年6月9日小田原都市計画区域を変更し、旧橘町の行政区域を含め翌6月10日市街化区域及び市街化調整区域を決定しました。
本市の市街化区域は、全行政区域の18.3%でありましたが、間もなく土地利用に対する強い規制が円滑な市政の発展を防げるとして、また住民からも市街化区域の拡大を望む強い要望があり、長年にわたり国、県と折衝した結果、昭和54年3月30日、677ha拡大され市街化区域は2,771haになり、これに伴い用途地域も変更されました。その後、数度の見直しを経て、現在の市街化区域は2,797haとなっています。
▼歴史
戦国時代には後北条氏の城下町として栄えた。江戸時代には小田原藩の城下町、東海道小田原宿の宿場町として盛えた。箱根峠より東側の宿場町として、現在も箱根観光の拠点都市である。1876年(明治9年)4月17日までは、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島を範囲とする足柄県の県庁所在地でもあった。西湘地域の中心的な都市である。
小田原ちょうちんとかまぼこの特産地として全国的に有名である。最近では小田原バーガーや小田原どんを売り出している。
一時期は東京のベッドタウン化したとも言われたが、長期不況で人口動態が減少に転じた。一時は20万人を超えた人口も20万を割り込み、新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保のための政策を実施している(ただし、2008年(平成20年)3月31日までに転入した対象者をもって新規受付は終了)。また駅周辺の再開発、および郊外での住宅、都市開発も少しずつ進んでいる。
古代
先史時代の小田原の中里遺跡は、縄文人と渡来人が共存共栄した数少ない遺跡(地域)として知られ、人口比率は縄文人が多かったと考えられているが、他の地域と違い、点々と存在した渡来人のみの小規模の集落ではなく、縄文人と共存した大集落であった。また、縄文文化と渡来文化の境界の東端であったとも考えられ、日本の文化人類学や考古学において貴重な資料を提供している。
古代の相模国足下郡(あしがらのしものこおり)の地である。古名を「こゆるぎ」といい、「小由留木」「淘陵」などの字が宛てられた。「小田原」という地名は、「小由留木」の草書体を読み間違えたものという説がある。市内千代にあった千代廃寺は相模国国府とも足柄下郡郡衙の所在地といわれる。
中世
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が1030年(長元3年)頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗った。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置されたと言う説もある。
平安時代の末期1180年(治承4年)に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代
戦国時代には伊勢平氏流を称する北条早雲が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、その他関東八屋形に列せられた諸氏による当時の関東の統治体制を転覆した。なお、下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれた。
近世
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入府によって、小田原は歴史の表舞台から姿を消す。家康が関東を治めるようになった後は、部下の大久保氏が小田原に入った。
また後北条氏が滅亡するまで、皮革業に独占的な権益を持ち、関東一円のある一定の人々を支配し勢力を誇った小田原太郎左衛門の本拠地があった。後北条氏が発給した判物が現存している。
江戸時代
江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が置かれ、小田原はその城下町となった。1686年(貞享3年)以降は代々大久保氏の城下町となった。城下町・小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場として東海道五十三次中最大の規模を誇った。又、小田原郊外の栢山(かやま)は、農政家・二宮尊徳の生地として有名である。
近代
1871年(明治4年)8月29日の廃藩置県によって、小田原藩は小田原県となった。同年末の県合併により、相模川以西の旧相模国と旧伊豆国全域を管轄区域とする足柄県が設置され、県庁が小田原に置かれた。しかし1876年(明治9年)に足柄県は分割され、小田原を含む相模国部分は神奈川県に、伊豆国部分は静岡県となり、小田原は県庁所在地ではなくなった。神奈川県となった後に設置された支庁も、間もなく廃止されたが、1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって足柄下郡が編制されると、足柄下郡の郡役所が小田原に置かれた。
東海道本線は当初、小田原~熱海~沼津間の急鋭地帯を避けるために現在の御殿場線経路で敷設された。その後、小田原経由の路線として、小田原馬車鉄道という馬車鉄道が1888年(明治21年)に開通したのを皮切りに、熱海線(現在の東海道本線)・小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)なども開通した。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、直下が震源地だったために激しい被害を受けた。1934年(昭和9年)の丹那トンネル開通で、東海道本線はやっと小田原市街地を通るようになった。この辺は吉村昭の小説『闇を裂く道』(文春文庫)に詳しい。1945年(昭和20年)8月15日、熊谷市と並び、太平洋戦争最後の空襲を受ける。戦後の1964年(昭和39年)には東海道新幹線も開通し、東京・横浜への所要時間も大きく縮んだ。
一部wikipedia引用。※一部小田原市HP引用。
平塚市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
平塚市(ひらつかし)は、神奈川県のほぼ中央に位置する市。特例市に指定されている。かつて東海道の宿場町であった。
神奈川県のほぼ中央、相模川右岸(西側)に位置し[1]、南は相模湾に面する。相模川から金目川までの間は市域北端部まで平野となっており、南部には市街地が広がる。金目川より西側は大磯丘陵の一部となる丘陵地帯であり、緑も多い。南部は国道1号とJR東海道本線が横断し、相模川沿いに国道129号が縦断する。北部から中西部にかけては、東海道新幹線と小田原厚木道路がやや離れて横断している。首都圏にある人口25万を超える都市であるにもかかわらず、鉄道の旅客駅はJR平塚駅のただ一駅だけである。
<川>
金目川(花水川)、相模川(馬入川)
<山>
高麗山(湘南平)
▼沿革
縄文時代-市内五領ヶ台、万田に集落が発生する。五領ヶ台の縄文遺跡では住居跡、貝塚等が検出されている。この遺跡は「五領ヶ台貝塚」として、1972年、国の史跡に指定された。ここから出土した土器は五領ヶ台式土器と称され、縄文時代中期の土器の代表的な様式のひとつとされている。
弥生時代-中原上宿、南原、上之入(市内岡崎)に集落発生。
4世紀後半-真土大塚山古墳、塚越古墳が築造される。(現在、大塚山古墳は消滅。ここからは三角縁神獣鏡やその他の貴重な遺物が出土している。塚越古墳は調査が続いている。(2009年9月現在))
奈良時代(8世紀ごろ)現在の平塚市四之宮周辺に下ノ郷廃寺が存在し、国厨・郡厨・大住厨と書かれた墨書土器が出土していることから、既にこの時期に相模国大住郡という行政組織が機能していたことが窺える。また相模国国府跡とも大住郡庁跡ともいわれている。
9世紀終から10世紀初頭-伝承によると、この頃平真砂子(高望王の妹)がこの地で没する。(「平塚の塚」の項に詳述。)
11世紀から13世紀から前半(和田合戦まで)-高望王を祖とすると号する中村党の土屋宗遠が土屋周辺を、同じく高望王系である三浦党の岡崎義実(中村宗平の女婿)が岡崎周辺、その子佐奈田義忠が真田周辺を支配。
1199年-相模川に架けた橋を源頼朝が馬で渡ろうとしたところ落馬し、これが頼朝の死去につながったという説があり、以降の相模川は馬入川の別名で呼ばれることになる。
ただし当時の流域は茅ヶ崎市だったという説がある。詳しくは旧相模川橋脚を参照。1416年-上杉禅秀の乱の功により中村党系の勢力は所領を失い大森氏の領するところとなる。
1512年-北条早雲が三浦氏の岡崎城攻略。以降、小田原北条氏(後北条氏)の領するところとなる。
1590年-豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、徳川家康が入封。
1596年-徳川家康により中原御殿(現平塚市立中原小学校-日枝神社)が造営される。現代の中原街道という街道名はこれに由来する。また、同時期に造営された小杉御殿は現在の川崎市中原区にあった。伝承ながら御殿裏門が市内南原の善徳寺三門に移築され遺構として残る。
1881年-湘南社結成。国会期成同盟が全国統一組織として自由民権運動を推進していたが、神奈川では独自に活動がおこなわれていた。その先鞭をつけたのがこの湘南社であり、現在の行政区分で言うと大磯町に本部を、秦野・平塚・伊勢原に支所(講学会場)を設置した。のちに県下初の盲学校・私立中郡盲人学校を設立した宮田寅治などが主要メンバーとして知られる。
1945年7月16日-平塚大空襲。陸軍戦闘機「疾風」で有名な日本国際航空工業や、第二海軍火薬廠、横須賀海軍工廠分工場、第二海軍航空廠といった軍直轄の軍需工場の密集する平塚市は、当時の市域(現在の東海道線平塚駅を中心として概ね半径2キロの地域。旧平塚市)における面積の約8割、戸数の約6割を焼失、死者237名、重軽傷者268名、罹災戸数7,678戸の大被害を受ける。このとき落とされた爆弾(主に焼夷弾)の数は1162.5トン、447,716本で東京都八王子についで第二位となった。
1951年-第1回七夕まつり開催。前年に開催された(平塚大空襲の)復興祭りが起源とされる。集客数は約300万人であり、これは仙台の約220万を抜いて全国一位である。
行政区域の変遷
1889年4月1日神奈川県大住郡に平塚町・須馬(すば)村・大野村・神田村・城島村・岡崎村・金田村・小中村・豊田村・土沢村・金目村・大根村が、淘綾郡(ゆるきぐん)に山背村が誕生
1896年3月26日大住郡と淘綾郡が合併、中郡となる
1909年4月1日小中村・山背村が合併し旭村となる
1927年1月1日須馬村に町制施行、須馬町となる
1932年4月1日平塚町と須馬町が合併し市制施行。平塚市の誕生
1944年2月11日大野村に町制施行、大野町となる
1954年7月15日旭村を編入
1955年3月2日中郡大根村真田地区が金目村に編入
1956年4月1日豊田村が大野町に編入
1956年9月30日大野町・神田村・城島村・岡崎村(馬渡・大句地区を除く)・金田村・土沢村を編入
1957年10月1日金目村を編入
▼歴史
平塚と言う名は鎌倉時代から史上に現れている。このあたりは、鎌倉幕府の開設
以来、鎌倉と京を結ぶ街道として文物の往来があったところである。
室町時代には、大森氏が平塚城を築いているが、文明10年(1478)に太田道灌
により攻め落とされ廃城となっている。
江戸時代に入り宿駅が制定された時点では、平塚宿はいわゆる本宿だけであったが宿駅の窮乏から慶安4年(1651)本宿の東に新宿が加えられた。
しかしそれでも平塚宿は小規模な宿場だったようである。
明治以降は、海軍火薬工場をはじめとする工場が建ち県中央部の先進的工業地帯へと変貌した。しかし、このため昭和20年7月に大空襲で五町の内柳町を残し、残り四町が全て焼失し焼け野原となった。
そのため宿場らしい面影を見出すことはできないが、西組問屋場跡のあたりから前方に見える高麗山の姿は浮世絵のままである。
東海道五十三次・平塚宿
日本橋から十五里半(約62キロ)徒歩で約15時間半
天保14年(1843)の宿場は、人口2114人・家数443軒・旅籠54軒・本陣1軒
である。
今、平塚市で一番の繁華街はJR平塚駅前から旧東海道に出た通りだが、
かっての平塚宿の入り口は、現在の平塚市民センターの辺りであり、ここに立つ
「平塚見附跡」碑から西組問屋場まで、脇本陣跡、高札場跡、本陣跡等の
碑がたっている。
平塚宿模型 平塚市博物館蔵
平塚宿絵図(文化8年) 平塚市博物館所蔵
平塚宿は東海道沿いに左右帯状に家並みをなし、その長さは平塚
新宿を含め十九町五間(約二キロメートル)海岸をはさんだ南側は
御林が海岸まで続き、南側は田畑や御林であった。
平塚市博物館所蔵
建坪111坪内部は書院造りで、湯殿(ゆどの・風呂場)、雪隠(せつ
いん・便所)なども、宿泊者と本陣家族では別々に設けられていた。
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