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酒々井町ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
北部
宗吾参道駅があり、東京学館高等学校の他、酒々井ちびっ子天国、伊篠白幡遺跡、上岩橋貝層などの遺跡が存在する。
中部
主要駅である、酒々井駅・京成酒々井駅が存在し、その周辺は人口密集地域である。また、東部の国道51号の旧道(成田街道)沿には、かつての宿場町の面影を残す酒々井宿の古い町並みが残っている。その他、国道のバイパス沿いにショッピングセンターや大型リサイクルショップなどの、大型商業施設が存在する。
南部
南酒々井駅があり、総合運動公園・ハーブガーデン・酒々井パーキングエリア・酒々井まがり家(飯沼本家内)などの諸施設が点在する。また、小規模ながら工業団地が存在する。南部地区新産業団地に、米外資系企業による超大型商業施設進出計画があったが、2007年5月に白紙となった。その後、2008年3月にオリックス不動産が都市再生機構と土地譲渡予定契約を締結した。
▼沿革
享徳3年
1454年
千葉氏の内紛により千葉城炎上。直胤等多古で討死。
文明年中
1469〜86年
輔胤、本佐倉城を築城。
孝胤、臼井城を攻める武蔵千葉、太田道灌らと戦う。
明応5年
永正末年頃
〜大永年中
1496年
佐倉「城中」にて家臣某誅殺される。
千葉妙見宮占領され、本佐倉城内に妙見宮遷座する。
勝胤、本佐倉城を大改修か。浜宿に勝胤寺創開。
天文年中
弘治3年
1557年
親胤、城の南に城域を拡大。
親胤、城内妙見宮で暗殺される。親胤舎弟出奔。叔父胤富、家督を継ぐ。
永禄年間
1558〜12年
胤冨、後北条氏とともに武田信玄、上杉謙信、里見氏・正木氏等と戦いを繰り返す。
元亀4年
1573年
本佐倉城、火災により炎上。胤冨、城普請を命ず。
天正13年
1585年
邦胤、城中寝所にて殺害される。大風吹き城破損。
天正18年
1590年
秀吉、小田原北城氏を攻める。千葉氏小田原へ出兵。
五月本佐倉城落城、七月小田原城落城、千葉氏没落。
文禄2年
1592年
家康五男、武田信吉佐倉を拝領。陣屋を構える。
▼歴史
伝説話
『昔むかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて父親に酒を買っていたんじゃ。ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれずに、とぼとぼと歩いて家に帰ろうとしていた。その時、道端の井戸から何とも良い香りが「ぷうん」としてきた。井戸の水をくんでなめてみると、それは本物の酒だったんじゃ。さっそく帰って父親に飲ませると、「こりゃうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」とたいそう喜んだ。息子はそれから毎日、毎日井戸から酒をくんで飲ませたんじゃ。ところがこの酒は、親子以外の人が飲むと、ただの水になってしまうんじゃな。「きっと、孝行息子の真心が天に通じたに違いない」とみんながほめたたえた。この酒の話しが広まり、村もいつか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。』
一部wikipedia引用。※一部酒々井町HP引用。
栄町ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
千葉県の北部、利根川流域に位置し、東は成田市、南は印旛沼、西は印西市、北は利根川をはさんで茨城県に接し、東京都心より45キロメートル圏に入り、千葉市からは35キロメートルの距離で、成田国際空港へは10キロメートルのところに位置しています。総面積は、32.46平方キロメートルで東西に約12キロメートル、南北に約5キロメートルの東西に細長く、東部は一帯に高台で、山林や畑が多く南部及び西北部は平坦で豊かな水田地帯が広がっています。近年、安食駅を中心とした一部周辺区域は、首都圏近郊の住宅地として社会経済環境は大きく変わりつつあります。
《位置》東経 140度14分50秒 北緯 35度50分15秒
▼沿革
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行。安食村、北辺田村、龍角寺村、酒直村、矢口村、須賀村、麻生村の7村と安食卜杭新田飛地が合併。下埴生郡境村(さかいむら)となる。
布鎌請方新田他15村が合併し印旛郡布鎌村(ふかまむら)となる。
1892年(明治25年)12月28日-境村が安食町(あじきまち)に町制施行改称。
1897年(明治30年)4月1日-下埴生郡が印旛郡に編入され安食町が印旛郡の所属となる。
1901年(明治34年)2月2日-安食駅が開業。
1954年(昭和29年)3月30日-印旛郡豊住村(現在の成田市)の興津を安食町が編入。
1955年(昭和30年)12月1日-布鎌村、安食町が合併。栄町となる。
1956年(昭和31年)1月1日-茨城県稲敷郡河内村(現在の河内町)の生板鍋子新田と龍ヶ崎町歩を編入。現在の町域が確定。
1965年(昭和40年)-国道356号が制定。
2006年(平成18年)4月18日-若草大橋が開通。
▼歴史
一部wikipedia引用。※一部栄町HP引用。
神崎町ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
神崎町(こうざきまち)は、千葉県香取郡にある町。
神崎町は、首都東京の東約60Km、千葉県の北端中央部に位置し、東は香取市、西と南は成田市に接するとともに、北は利根川を挟んで茨城県稲敷市と対峙しています。面積は19.85、町の東西5.7Km、南北6.2Km、地勢は概ね平坦で、南東部は丘陵の起伏が多く、畑や山林が大半を占め、北部は利根川沿いに肥沃な沖積低地が開けています。海抜0~40m、うち最高地は古原字秣場地先(海抜39.2m)、最低地は松崎溝向通り地先(海抜1.1m)。
▼沿革
1889年(明治22年)4月1日–町村制施行に伴い、神崎村と米沢村が発足。
1890年(明治23年)3月12日-神崎村が町制施行し神崎町(初代)となる。
1898年(明治31年)2月3日-郡駅(現在の下総神崎駅)が開業。
1955年(昭和30年)1月5日–神崎町と米沢村が合併し、神崎米沢町が発足。同日、改称して神崎町(2代目)になる。
1965年(昭和40年)-国道356号が制定。
1967年(昭和42年)5月–神崎大橋が開通。
▼歴史
本町の行政区域としての位置づけは、明治4年新治県に始まり、明治8年以降は千葉県に属し、明治22
年4月町村制施行とともに武田、新、毛成、古原、植房、立野、大貫、郡の8ケ村が米沢村として、また、
神崎本宿、神崎神宿、松崎、小松、並木、今、高谷の7ケ村が神崎村として合併、翌23年3月に神崎村は
町制が施行され神崎町となりました。その後昭和30年4月、神崎町・米沢村が合併して新生神崎町が誕生
さらに昭和41年1月、向野地区が茨城県東村・河内村から千葉県に割譲され、本町に編入され現在に至っ
ています。
昭和47年には工業団地の操業も始まり、また、近年は自然との調和を図りながら大規模な宅地造成や
道路整備も進み、緑ある自然環境と恵まれた歴史風土の上に、調和のとれた「自然と人とふれあいのまち」
を形成しています。
一部wikipedia引用。※一部神崎町HP引用。
多古町ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
多古町(たこまち)は、千葉県香取郡にある町。
下総台地と九十九里平野に挟まれ、町の中央部を九十九里平野最大の河川である栗山川が流れている。西は成田空港に接している。
面積:72,68km2
人口:15,776人(平成24年4月1日現在)
世帯数:5,490世帯
地勢:
北総大地の東側に位置し、東西約14,5km南北約11,5kmで面積は県内町村の中で2番目の広さです。
町中央部を南北に流れる栗山川の流域は、低地で水田地帯が広がり多古米の産地となっています。
北部及び東部は台地が広がり畑地帯を囲むように山林が緩傾斜面となっています。
▼沿革
1889年(明治22年)4月1日-町村制施行に伴い、多古村、東条村、久賀村、中村、常磐村が発足。
1891年(明治24年)6月29日-多古村が町制施行し多古町(初代)となる。
1946年(昭和21年)10月9日-成田鉄道多古線が廃止。
1951年(昭和26年)4月1日-多古町、東条村が合併し多古町(2代目)を新設。
1954年(昭和29年)3月31日-多古町、久賀村、中村、常磐村が合併し多古町(3代目)を新設。
1970年(昭和45年)4月1日-国道296号が制定。
2001年(平成13年)-道の駅多古が開業。
▼歴史
縄文時代:丸木舟など、縄文時代の遺跡が多数発見されている。
弥生時代:稲作が盛んになり、現在でも「多古米」はブランド米として知られる。
古墳時代:房総最古の埴輪が発見された墳丘全長82メートルのしゃくし塚古墳に代表される柏熊古墳群や、73メートルの北条塚古墳を有する北条塚古墳群、そして小川土仏古墳群、内野古墳群、坂並白貝古墳群、淀台古墳群、飯土井台古墳群などの群集墳が数多くあり、九十九里浜から香取海へ通じる要衝であった。
平安前期:九十九里浜から香取海、さらに陸奥国への交通の要衝であり、延暦16年(797年)に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷征討の途中松崎神社に参拝したと伝えられている。
平安後期:房総藤原氏の領した千田荘(現在の多古町)は上総下総両国の中心であったが、治承4年(1180年)に皇嘉門院判官代藤原親政(千田親政)が源頼朝に敗れ[1]、以後千葉氏の所領となった。
南北朝時代:文永の役の負傷がもとで肥前国小城郡で没した千葉頼胤に代わって嫡男の宗胤が九州に赴いた間に千葉氏の家督を弟の胤宗に横領されてしまった。千田荘を本拠とした宗胤の嫡男胤貞は、折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方について、南朝方についた胤宗の子貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没し宗家の地位を失った千田氏はその後衰退した。
室町時代:馬加康胤の裏切りに遭い、千田荘に逃れて再起を図った千葉氏18代当主・千葉胤宣が康正元年8月12日(1455年9月23日)に多古城の近くの阿弥陀堂で、胤宣の父・胤直は8月15日(9月26日)に東禅寺で、胤直の弟・胤賢も9月7日(10月17日)に小堤城(現在の横芝光町小堤)で自刃、千葉氏宗家の嫡流が滅亡した。千葉氏宗家に仕えていた飯篠家直は、この様を目の当たりにし武芸をもって武士として生きることに虚しさを覚えた。そして厳しい修行の末「兵法とは平和の法なり」との悟りを得、天真正伝香取神道流を創始したと言われる。
江戸時代:徳川家康の江戸入府に伴い、保科正光が多古に入部した(その後、松平(保科)家は高遠藩を経て子の正之は会津藩主)。天領時代を経て、松平(久松)家嫡流の勝義が多古を領し、廃藩置県まで松平(久松)家の領地であった。
一部wikipedia引用。※一部多古町HP引用。
東庄町ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理
大網白里市(おおあみしらさとし)は千葉県北東部に位置する市。太平洋(九十九里浜)に面し、九十九里平野の中央に位置する。
本市は房総半島の付け根の太平洋岸(九十九里浜)に面しており、県庁所在地である千葉市の東隣に位置する。東京都心から50~60km圏域に位置している。東西に細長い市域は、西部の「大網地区」である丘陵部、中央部の「増穂地区」である広大な田園部、東部の「白里地区」である海岸部を有している。
▼沿革
町制時代
1954年(昭和29年)12月1日-山武郡大網町、白里町、増穂村が合併して大網白里町を新設。[5]
1955年(昭和30年)7月1日-現在の市章となる町章を制定する。[6][7]
1957年(昭和32年)11月1日-長生郡本納町の一部(清水の一部)を編入。
市制時代
2013年(平成25年)1月1日-単独市制を施行し、[8]「大網白里市」になる。[9]。千葉県内の単独市制施行は2002年(平成14年)4月1日の富里市以来10年9ヶ月ぶりとなる。
▼歴史
大網白里市おおあみしらさとし は、歴史的にみると、古くからの遺跡等が存在しています。
明治2年2月には、 宮谷みやざく の 本国寺ほんごくじ に庁舎が置かれ、木更津県が設置されるまでの2年9ケ月の間、宮谷県庁として千葉県近代史の一端を担いました。
昭和29年には2町1村の合併により大網白里町が誕生し、丘陵(旧 大網町おおあみまち)・田園(旧 増穂村ますほむら)・海岸(旧 白里町しらさとまち)の3つの特徴ある風土をもつまちが形成されました。
その後も豊かな海や自然を背景とした、第一次産業を中心とする地域でしたが、高度経済成長期に入り、千葉市や東京都心部からの郊外型ベットタウンとして注目され、昭和50年代からは、町西部の丘陵地を中心に宅地開発が進み、さらにJR京葉線の外房線乗り入れ等の交通アクセス向上によって急速に人口が増加し、平成25年1月1日に市制施行しました。
一部wikipedia引用。※一部東庄町HP引用。
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