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山武市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理・地勢
山武市は、千葉県の東部に位置し、県都千葉市や成田国際空港まで約10から30キロメートル、都心へも約50から70キロメートルのところにあります。日本有数の砂浜海岸である九十九里浜のほぼ中央で約8キロメートルにわたって太平洋に面し、総面積は146.38平方キロメートルです。
地勢は大別して九十九里海岸地帯と、その後背地としての広大な沖積平野及び標高40から50メートルの低位台地からなる丘陵地帯で構成されており、これらは海岸線にほぼ並行に帯状に展開しています。
海岸地帯は、砂浜と松林が連なり、成東海岸と蓮沼海岸の遠浅の海が広がり多くの海水浴客が訪れます。
平地地帯は、本地域の中央部に広がる肥沃な土壌を持つ九十九里平野で、田園地帯を形成しています。
丘陵地帯は、大部分が成田層と呼ばれる地質で、表層が関東ローム層、下層が砂及び粘土互層で構成されており、上総層群の堆積盆地に位置しています。
山武市は、稲作はもちろん野菜や果実の生産も盛んで、山武杉などの林産物、九十九里浜の海の幸と、自然の恵み豊かな地域であるとともに、観光リゾート地として海水浴やサーフィン、テニスなどのスポーツも楽しめ、若者にも魅力ある地域資源を有しています。近年では山武市の立地条件の良さから、工業施設の集積が高まりつつ、また自然環境の良さからもこの地域を訪れ、移り住む人々も数多くいます。
近年では、交通アクセスの利便性も向上しており、今後更なる交流と物流と観光の拠点として発展することが期待されています。
▼沿革・歴史
2006年(平成18年)3月27日-山武郡成東町・山武町・蓮沼村・松尾町が合併し山武市が発足。
2006年(平成18年)10月1日-市章を制定する。
2011年(平成23年)3月11日-沿岸部に東北地方太平洋沖地震による津波が襲い、死者1名と重症者2名の人的被害が出た。海岸の防砂林を超えた津波による浸水被害のほかに、河川を逆流した津波が田畑に流れ込むなどの被害が出た。また、地震動により43棟が全壊し、438棟が半壊した(2012年2月1日現在、千葉県:東日本大震災について)。
一部wikipedia引用。※一部山武市HP引用。
習志野市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理・地勢
習志野市は千葉県の北西部に位置し、東京からほぼ30キロメートル圏内にあります。東は千葉市、西は船橋市、北は八千代市に接し、南は東京湾に面しています。海岸線は千葉港(東京湾)の一部を形成し、地形は東西8.9キロメートル、南北6.2キロメートルで内陸部の自然地形と平坦な埋立地からなっています。
古くは、騎兵連隊・鉄道連隊が置かれるなど軍都として発展してきましたが、現在、軍用地の跡は病院や学校に建替えられ、軍隊の街から文教住宅都市へと生まれ変わりました。臨海部は埋め立てられ袖ヶ浦団地、秋津団地などの大型団地が建設されるなど東京のベットタウンとして発展しています。
◆位置
極東東経140度05分18秒
極西東経139度59分24秒
極南北緯35度38分58秒
極北北緯35度42分19秒
◆海抜
最高30.6メートル
最低0.8メートル
▼沿革・歴史
町村制の施行以来、一度も他の市町村全域とのの廃置分合を行っていない珍しい例である。千葉県内では他に鎌ケ谷市、富里市、酒々井町がある。
1889年(明治22年)4月1日-町村制の施行により谷津村、久々田村(現津田沼)、鷺沼村、藤崎村、大久保新田が合併して千葉郡津田沼村が発足。
1903年(明治36年)3月3日(6月3日)-津田沼村が町制を施行し津田沼町となる。
1954年(昭和29年)8月1日-津田沼町が千葉市の一部(旧幕張町北部:実籾、愛宕、安生津、長作、天戸)を編入して習志野町と改称、即日市制を施行し習志野市となる。
8月28日-一部の地域(旧幕張町北部:天戸、長作の字開有富、字享保の一部を除く大部分)を千葉市に編入。
1955年(昭和30年)9月30日-船橋市習志野町の一部(現東習志野)を編入。
1957年(昭和32年)12月1日-千葉市幕張町2丁目の一部(現花咲)、長作町の一部(現実籾)を編入。
1965年(昭和40年)9月1日-千葉市長作町の一部(現実籾)を編入。
1966年(昭和41年)12月27日-公有水面埋立地(現袖ヶ浦)を編入。
1967年(昭和42年)3月1日-東習志野町字新生の一部を千葉市に編入(現長作町)。千葉市幕張町2丁目の一部(現花咲)を編入。
1969年(昭和44年)3月1日-千葉市幕張町2丁目の一部(現屋敷、花咲)、長作町の一部(現実籾)を編入。
10月1日-東習志野町字新生の一部を千葉市に編入(現長作町)。
1970年(昭和45年)5月1日-千葉市幕張町2丁目の一部(現屋敷、花咲)を編入。
1971年(昭和46年)5月1日-屋敷町の一部を千葉市に編入(現幕張町)。千葉市幕張町2丁目の一部(現花咲、本大久保、花咲)、長作町の一部(現実籾、実籾本郷)を編入。
1977年(昭和52年)12月15日-公有水面埋立地(現香澄、秋津、茜浜、芝園)を編入。
1980年(昭和55年)8月5日-公有水面埋立地(現芝園)を編入。
1981年(昭和56年)5月1日-谷津7丁目の一部を船橋市に編入。
1989年(平成元年)2月17日-公有水面埋立地(現香澄)を編入。
1992年(平成4年)3月3日-公有水面埋立地(現袖ヶ浦)を編入。現在の市域となる。
一部wikipedia引用。※一部習志野市HP引用。
流山市ってどんな街?
●町紹介♪
▼地理・地勢
流山市は、千葉県の北西部、関東平野の中に位置する。東葛飾地域に属し、旧東葛飾郡の中部に当たる。東京都心から約25km。市の西境を江戸川が南北に流れ、江戸川の対岸は埼玉県である。また、市の北部には利根運河が流れる。
市の面積は35.28km²で、県内では5番目に面積の小さい市である。市域は南北に長く、江戸川沿い及び市の南部は平坦な低地、市の中部や北部は緩やかな高低差の台地となっており、ほぼ全域が住宅街や農地などになっている。地理・地勢
▼沿革・歴史
近世以前
下総国に属する。18世紀頃から江戸川の水運のための河岸ができ、みりんの製造で栄えた。幕末期には新選組が本陣を置いたが、新政府軍に包囲されたため隊長の近藤勇が出頭し、盟友土方歳三との離別の地となった。
近代以降
1869年(明治2年)当市域内は葛飾県に入る。葛飾郡加村字坂ノ下(現:流山市加一丁目)に葛飾県庁が置かれた。
1871年(明治4年)葛飾県が印旛県に統合(県庁は葛飾郡本行徳村字寺町(現:市川市本行徳)の徳願寺)。
1872年(明治5年)葛飾県庁の置かれていた加村字坂ノ下(旧葛飾県庁)に印旛県庁が置かれる。公式な県庁所在地は佐倉だが、庁舎建設が間に合わなかったため。
1873年(明治6年)6月15日印旛県が千葉県に統合。
1889年(明治22年)4月1日町村制施行。南西部に流山町(1次)、北西部に新川村、東部に八木村が置かれる。いずれも東葛飾郡。
1911年(明治44年)5月9日新川村・八木村に千葉県営軽便鉄道(現:東武野田線)が開業。
1916年(大正5年)3月14日流山軽便鉄道(現:流鉄流山線)運行開始。
1951年(昭和26年)4月1日流山町(1次)、新川村および八木村が合併し、江戸川町が成立。
1952年(昭和27年)1月1日江戸川町が流山町(2次)に改称。
1952年(昭和27年)5月10日松戸市および小金町との境界を変更する。
1952年(昭和27年)9月11日小金町との境界を変更する。
1967年(昭和42年)1月1日市制施行。流山市となる。
1973年(昭和48年)国鉄(現:JR)武蔵野線開業。
1992年(平成4年)常磐自動車道流山IC開業。
2005年(平成17年)首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開業。
2007年(平成19年)市制施行40周年。
八千代市ってどんな街?
●町紹介♪
▼
市の概要
市の北側半分は、下総台地の緑豊かな自然があります。
南側半分は、森を残し、緑の景観に配慮した市街地が形成されています。
市の中央には八千代市のシンボル「新川」が南北に悠々と流れ、人々は釣りや散策を楽しんでいます。八千代市は、首都30キロ圏の位置と交通の便、自然環境の良さから首都圏のベッドタウンとして急激に発展してきました。
平成8年4月、都心に直結する東葉高速鉄道が開通。新しい駅を中心に開発が進み、今後もさらに発展が見込まれています。
八千代市の将来像は「快適な生活環境とやすらぎに満ちた都市八千代」。
この将来像を実現するため、6つの柱をたて、まちづくりを進めています。
まちづくりの6つの柱
1健康福祉都市をめざして
2教育文化都市をめざして
3環境共生都市をめざして
4安心安全都市をめざして
5快適生活都市をめざして
6産業活力都市をめざして
▼歴史
旧石器時代の遺跡が残されており、約3万年前からこの地に人が住んでいたとされる。
菅原道真のたたりを恐れた藤原時平の妻と娘が関東に逃れ、高津地区に住み着いたといわれている。
中世には米本城が構築されたが、1558年、城主の村上綱清が原因不明の自殺をし、廃城となった。
江戸時代には、天領と旗本領に分けられた。成田街道大和田宿は、成田山への参拝客のための宿場町として栄えた。
1874年 現市域の南西部が陸軍の習志野演習場の一部として買収される。近年では旧日本陸軍軍用跡地に毒ガス弾が埋設され残っている問題が浮上した。環境省が調査を行っているが、旧日本陸軍習志野駐屯地跡地のある船橋市・習志野市など近隣市町村にまたがる広域の問題となっている。[2][3]
1889年 市町村制の施行に伴い、千葉郡大和田村(1891年に町制施行)・同睦村・印旛郡阿蘇村が誕生する。
1923年 関東大震災後の混乱の中、高津地区で自警団による朝鮮人虐殺が発生[4](高津観音寺内に慰霊碑が設けられている)
1926年 初の鉄道線京成線が開通し、京成大和田駅が設置される。
1954年 大和田町と睦村が合併し、新たに千葉郡八千代町が誕生する。八千代の名前は公募によって決定した。同年、印旛郡阿蘇村を吸収合併する。
1955年 日本住宅公団により日本初の大規模住宅団地・八千代台団地が建設される。その後も、大規模団地の建設が相次ぐ。
1956年 京成線八千代台駅が開業する。
1967年1月1日 流山と共に市制施行。千葉郡はこれにより消滅する。
1968年 京成線勝田台駅が開業する。
1996年4月27日 永年の懸案であった東葉高速鉄道が開業する。市内には八千代緑が丘、八千代中央、村上、東葉勝田台の4駅が設置される。
2000年 人口15万人突破
我孫子市ってどんな街?
●町紹介♪
▼
「あびこ」の由来
「我孫子」という地名は非常に難読な地名として知られています。現在のところ、我孫子市域をさす「アビコ」として資料的に最古のものは、鎌倉時代末の正和2(1313)年の「尼しんねん譲(ゆずり)状」(土地の相続をめぐる遺言書)に「しもつさのくにあひこのむら」(下総国我孫子村)とあるものと考えられています。これにより少なくとも鎌倉時代には我孫子市域が「アビコ」として呼ばれていたことがわかります。それ以前の奈良・平安時代の公式な文書では我孫子市周辺は「下総国相馬郡」と呼ばれていて、我孫子という地名は確認されていません。
それでは、我孫子の由来とは一体どのようなものでしょうか。古代において「我孫子」は氏(ウジ)や姓(カバネ)という、血筋や職種にかかわる苗字のようなものであり、人名として使用されていました。表記は異なりますが「阿毘古」「我孫公」という人の記録が残されています。古墳時代(3世紀から7世紀)にかけて日本列島で大きな権力を有した大王(オオキミ、のちの天皇家につながっていくとされる)や大和地方の有力豪族は、各地の地方豪族を支配下におさめる際に、豊かな土地を直轄地とし、そこに住む人々から貢納物を納めさせました。その際に土地やそこに住む人々に「我孫子」という名前が付けられたと考えられます。大阪や奈良をはじめ、全国各地に「我孫子」「安孫子」「吾孫子」などの地名や人名が認められるのはこのためであると思われます。
また発掘調査の成果からみると、我孫子には水神山古墳(高野山、全長69mの前方後円墳。4世紀後半。千葉県北西部地区最大の古墳)が作られ、古墳時代の早い時期から大和政権とつながった人物がいたと考えられることから、文字として残されてはいませんが、大王や大和政権との深い結びつきから「我孫子」の地名が付けられたと考えられるのです。
▼歴史
旧石器時代より人類が住んでいた痕跡が確認されており、江戸時代には利根川の水運が隆盛したこと、水戸街道沿いに我孫子宿ができたことで、交通の要衝として大きく発展した。明治時代に入り鉄道や自動車、汽船などの交通機関が発達するにつれて、利根川の水運は衰退したが、現在のJR常磐線・成田線の開通に伴いベッドタウンとして人口が増加した。
1911年(明治44年)に嘉納治五郎が別荘を構える。嘉納は現在の我孫子市白山に土地を購入し農園を設け、「嘉納後楽農園」と名付けている。この嘉納の甥である柳宗悦が1914年に移住し、彼に誘われる形で1915年には志賀直哉が移住している。この時期我孫子で執筆された作品に、「城の崎にて」「和解」「暗夜行路(前篇のみ)」がある。さらに1916年には武者小路実篤が移住し、1922年には瀧井孝作が居を構える。さらに中勘助も、志賀直哉とのつながりから仮寓している。加えて柳宗悦の屋敷内にバーナード・リーチが窯を築くなど、明治後期から大正時代にかけて多くの文化人が移り住み、白樺派の拠点にもなる。その他、村川堅固(西洋史学者)や杉村楚人冠(ジャーナリスト、随筆家)、柳田國男(民俗学者)、坂西志保(教育家)なども居を構えていた。
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